第八章 見える死 & 見えない死

死ぬとは、すべての自分が死に絶えることだとわれわれは理解しています。
言い換えれば、
肉体も意識も消滅することだと思っています。
だから、
肉体は滅びても(消滅しても)、魂(意識)は不滅だと思い込みたいわけで、挙句の果てには、輪廻転生といった馬鹿げたことを信じ込んでいるわけです。
現に、
本心では、まさか(?)と思いながらも、正月には初詣し、お盆には先祖を拝み、日頃でも何か艱難がやってくると、苦しい時の神頼みをするし、祟りを怖れているのがその証左に他ならない。
では、
わたしたちは、そんな馬鹿げた考えを何故思い込みたい、すなわち、なぜ信じているのでしょうか。
まさに、
肉体は目で見えるのに対して、魂は目に見えないからに他なりません。
まさに、
肉体の死は目で見えるのに対して、魂の死は目で見えないからに他なりません。
まさに、
五感で感知できるものの消滅は受容できるのに対して、五感で感知できないものの消滅は受容できないことを意味しているのです。
そして、
五感で感知できる肉体の死は受容できるから、覚悟ができます。
逆説的に言えば、
五感で感知できる肉体の死は覚悟ができるから、受容できます。
一方、
五感で感知できない魂の死は受容できないから、覚悟できず怖れるわけです。
逆説的に言えば、
五感で感知できない魂の死は覚悟ができないから、受容できないのです。
まさに、
見える死は怖くない証左に他なりません。
見えない死を怖れる証左に他なりません。
そして、
われわれが怖れている死の正体は、肉体の死ではなく、魂の死、すなわち、意識の死に他ならなかった。
言い換えれば、
われわれが怖れている死の正体は、肉体の消滅ではなく、魂の消滅、すなわち、意識の消滅に他ならなかった。
だから、
肉体は死んでも、魂は死なないという輪廻転生の考えに拘泥してきたわけです。
ところが、
この考えは、まさに、無いものねだりの骨折り損の代物に他ならなかったのです。
従って、
見える死は怖くない。
見えない死を怖れる。
ことが問題なのである。
従って、
見える死は怖くない。
見えない死も怖くない。
ようになればいいのです。