第三十五章 再現ドラマの人生

最期の死に際して怖れ慄くことがないように生きることが、悩みや四苦八苦に苛まれない人生に他ならない。
まさに、
死を知ったわれわれ人間の大人の人生は、再現されたビデオテープを観るようなものです。
なぜなら、
未だ来ぬ未来の出来事は未知のはずなのに、最期の未来は既知だったのだから。
まさに、
われわれ人間の大人の人生は、再現ドラマに他ならなかったのです。
一方、
われわれ人間の子供や、自然社会のすべての生きものたちの一生は、生放送のドラマなのです。
なぜなら、
生放送のドラマでは、最期の結末は未知なのですから。
まさに、
われわれ人間の子供や、自然社会のすべての生きものたちが、死を知らない所以に他なりません。
まさに、
われわれ人間の大人だけが、死を知っている所以に他なりません。
そうしますと、
われわれ人間の子供や、自然社会のすべての生きものたちは、生放送のドラマを生きているのに対して、
われわれ人間の大人だけが、再現ドラマの人生を送っていることに気づきます。
まさに、
この気づきは革命的なものなのです。
なぜなら、
137億年前に宇宙がビッグバンによって誕生、同時に時間が誕生して以来、現在に至るまで、時間は過去→現在→未来へ一方通行に流れてきたことが崩れたからに他ならないからです。
言い換えれば、
時間は未来→現在→過去へ流れる方向もあり得ることを立証しているからに他ならないからです。
そうでないと、
未だ来ぬ未知のはずの未来の最期の死がわかるはずがありません。
従って、
死を知ることの意義には、二つの可能性があることになります。
先ず、
最期の死は、やはり、不確定なのではないか?という可能性です。
もう一つは、
もしそうなら、死を知った意義は途轍もなく大きいのでは?という可能性です。
死を知ることの意義には、二つの可能性がある。
先ず、
最期の死は、やはり、不確定なのではないか?という可能性。
もう一つは、
もしそうなら、死を知った意義は途轍もなく大きいのでは?という可能性。
いずれにしても、
死を知るということは、奇跡的な出来事のようです。
まさに、
死を知ったわれわれ人間は、不確定なものを確定することによって、生放送の人生ドラマ劇を、再現放送の人生ドラマ劇に変えることができるのです。
更に、
自分の意思で、人生ドラマを悲劇にもできるし、喜劇にもできるのです。
ただ残念なことに、
死を知ったわれわれ人間は、自分の人生ドラマを悲劇にしてきたのです。
その理由は、
死を好くないものと思い込んできたからに他なりません。
まさに、
死を好くないものと思い込んで生きた人生は、悲劇のドラマになる。
死を好きものと思い込んで生きた人生は、喜劇のドラマになる。
まさに、
死を知るということは、奇跡的恩恵以外の何者でもなかったのです。
死を好くないものと思い込んで生きた人生は、悲劇のドラマになる。
死を好きものと思い込んで生きた人生は、喜劇のドラマになる。
ただ残念なことに、
死を知ったわれわれ人間は、自分の人生ドラマを悲劇にしてきた。
では、
我々人間は、なぜ死を好くないものと思い込んで生きてきたのでしょうか?
言い換えれば、
我々人間は、なぜ死を忌避して生きてきたのでしょうか?
そこで、
仏教の教えの中で、四苦八苦の概念があり、その中に「愛別離苦」、すなわち、愛する人と別れる苦というものがあります。
まさに、
死によって愛する人と別れる、それが辛い、苦しいというのだから、やはり、死を好くないものと思うのは人情で仕方ない。
そうすると、
死を好くないものと思い込んで生きてゆくのは仕方ないのでしょうか?
そうすると、
われわれの人生は詰まるところ悲劇になるのは仕方ないのでしょうか?
確かに、
愛する人が死んだ棺が、焼き場の焼却炉の中に入ってゆくとき、最後の別れの瞬間(とき)だと思って大抵の人は、胸が詰まされる想いになります。
ところがその後が問題です。
時間の経過と共に忘れてしまう自分がいる。
この事実(いわゆる現実)を一体どう捉えたらいいのでしょうか?
まさに、
愛する人と別れる苦とは、しょせん刹那的なものに過ぎない証明に他なりません。
言い換えれば、
愛する人と別れることが苦なのではなく、昨日までそうだったものが、今日もそうであり、明日もそうであるはずが、今日はそうではなく、明日もそうではなくなることが苦に他ならなかったのです。
従って、
いつか必ず、昨日もそうだったものが、今日もそうであり、明日もそうなれば苦ではなくなるわけです。
まさに、
刹那的の意味に他ならない。
まさに、
忘却の意味に他ならない。
従って、
愛する人と別れる苦は、一日も経てば、忘却の彼方に去ってしまうのです。
まさに、
愛する人と別れる苦とは、しょせん刹那的なものに過ぎない証明に他なりません。
死を好くないと思い込むのは、ほんの一瞬(刹那)の問題だった。
なぜなら、
愛する人と別れる苦など、一日も経てば、忘却の彼方に去ってしまうからです。
まさに、
愛する人と別れる苦とは、しょせん刹那的なものに過ぎない証明に他ならない。
逆説的に言えば、
刹那的な愛など、ホンモノの愛ではないのです。
平たく言えば、
愛していると思っているだけで、ホンモノの愛なら刹那的ではなく、永遠的であるはずです。
なぜなら、
刹那的とは過去→現在→未来という時間の世界にいるからに他なりません。
逆に、
永遠的とは『今、ここ』という時間の無い(止まった)世界にいるからに他なりません。
結局の処、
ニセモノの愛だから、時間と共に解決する(忘却する)のです。
ホンモノの愛ならば、時間を超えて解決する(永遠に忘れない)のです。
まさに、
愛する人と別れる苦の正体とは、ニセモノの愛に過ぎないのです。
そして、
そんなニセモノの愛など、消えてしまえばいいのです。
言い換えれば、
ニセモノの愛が消滅することこそ、死に他ならないのです。
なぜなら、
愛と死こそ、時間を超える永遠性、すなわち、唯一性を持つものに他ならないからです。
従って、
ホンモノの愛ならば、逢えなくなっても悲しくはないのです。
永遠性を持つ愛は、時間を超えている。
言い換えれば、
唯一性を持つ愛は、時間を超えている。
なぜなら、
愛しているとき、過去(最も近い過去である現在も含む)にもいないし、未来(最も近い未来である現在も含む)にもいないで、『今、ここ』にいるからです。
まさに、
過去や未来に想いを馳せているなら、愛していない証明です。
なぜなら、
過去や未来に想いを馳せるということは目的意識があるからで、目的意識のある愛など愛ではないからです。
現に、
“あなたを愛していました”は『今、ここ』では愛していない証明です。
また、
“あなたを愛しましょう”も『今、ここ』では愛していない証明です。
まさに、
“あなたを愛しています”は『今、ここ』で愛している証明です。
更に厳密に言えば、
“愛しています”の『今、ここ』にはあなたも存在しません。
なぜなら、
あなたは映像であって、実在ではないから、『今、ここ』で愛することなどできないのですから。
だから、
『今、ここ』に実在するのは、愛だけです。
一方、
『今、ここ』に実在するのは、死だけです。
なぜなら、
死もまた、過去や未来に起こるのではなく、『今、ここ』でしか起こらないからです。
現に、
死は突然やってくる。
言い換えれば、
突然やってくるものが、過去や未来にいるわけがない。
だから、
『今、ここ』に実在するのは、愛=死だけです。
永遠性を持つものだけが、ホンモノです。
唯一性を持つものだけが、ホンモノです。
そして、
永遠性とは『今、ここ』にいることです。
唯一性とは『今、ここ』にいることです。
そして、
『今、ここ』にいることを実在すると言うのです。
そして、
愛と死だけが『今、ここ』にあります。
従って、
愛と死だけが実在するホンモノです。
畢竟、
『今、ここ』に実在するホンモノとは、永遠性と唯一性を有する愛、すなわち、死だけなのです。
言い換えれば、
愛するとは、自己を滅する、すなわち、ニセモノの自分(Ego)の死に他ならず、
ニセモノの自分(Ego)の死とは、過去や未来に想いを馳せることを止めること、すなわち、『今、ここ』にいることに他ならず、
『今、ここ』にいるとは、永遠性=唯一性を生きることに他ならず、
永遠性=唯一性を生きるとは、ホンモノに目覚めることに他ならないのです。
畢竟、
愛と死と素数だけが実在するの(ホンモノなの)です。
永遠性を持つものだけが、ホンモノです。
唯一性を持つものだけが、ホンモノです。
そして、
愛と死と素数だけが実在するホンモノ。
現に、
愛や死が実在するホンモノと言っても、われわれ人間は実感が湧きません。
ところが、
素数は実在するホンモノであることは実感できます。
なぜなら、
素数はすべて唯一だからです。
一方、
われわれ人間社会が使用している数は、素数ではなく自然数という唯一性の無い、われわれ人間自身が編み出した人工的なものです。
そして、
物事、すなわち、森羅万象を論理的に説明(表現)すると自称する科学という代物が、唯一性の無い自然数で以って行っているのです。
では、
こんなやり方で、永遠性=唯一性を持つホンモノの世界である、われわれの宇宙や自然社会、延いては人間社会を論理的に説明(表現)できるのでしょうか?
まさに、
できるわけがないことは自明の理に他なりません。
逆に言えば、
まさに、
唯一性を持つ素数で以って論理的に説明(表現)できなければならないことは自明の理に他なりません。
では、
論理的に説明(表現)するとは、一体どういうことでしょうか?
まさに、
A=B、B=Cとするなら、A=Cであると理解できる能力があってはじめて、論理的に説明(表現)ができるのです。
言い換えれば、
1+1=2、1+2=3とするなら、1+3=4であると理解できる能力があってはじめて、論理的に説明(表現)ができるのです。
そのためには、
それぞれの数の間は必ず1があるという前提条件がなければならないからです。
言い換えれば、
数(n)の次の数は(n+1)であるという前提条件がなければならないからです。
まさに、
自然数は、1、2、3、4、5、6、7、8、9・・・n、(n+1)・・・と論理的に説明(表現)できるのです。
ところが、
素数は、2、3、5、7、11、13・・・n、(?)・・・と論理的に説明(表現)できないのです。
まさに、
愛は、論理的に説明(表現)できないのです。
まさに、
死は、論理的に説明(表現)できないのです。
逆に言えば、
ニセモノしか、論理的に説明(表現)できないのです。
まさに、
科学は、ニセモノの証明に他なりません。
一方、
愛と死と素数だけが実在するホンモノ。
従って、
科学では、愛や死や素数を説明できません。
言い換えれば、
言語学(言葉)や文学では、愛を説明できません。
言い換えれば、
宗教や哲学では、死を説明できません。
言い換えれば、
数学や物理学では、素数を説明できません。
ところが、
数学者は、リーマン仮説を解こうと躍起になっています。
現に、
数学者は、古代ギリシャの数学者ユークリッドが証明した、素数も無限にあることを盲目的に信じているのです。
ところが、
ユークリッドは自然数を遣って素数の無限を証明するという、撞着矛盾なことをしているのです。
言い換えれば、
唯一性のない自然数の3や5や7と、唯一性のある素数の3や5や7を同等扱いするという、まさに、撞着矛盾なことをしているのです。
まさに、
一本の木ばかり見て、森全体を見ることができないのが科学者や言語学者や文学者や宗教者や哲学者や数学者や物理学者なのです。
従って、
彼らに、愛や死や素数を説明などできるわけがありません。
特に、
素数を数学で論理的に説明するなどできるわけがありません。
アラブの世界でこんな逸話があります。
17頭のラクダを所有しているアラブ人が、3人の子供たちに遺言状を残して死にました。
長男には1/2の財産を、次男には1/3の財産を、三男には1/9の財産を与えるように書いてありました。
ところが、
17頭の数では、1/2でも、1/3でも、1/9でも、1頭を切り刻まなければなりません。
そこで、
町の老賢者に相談したら、老人は自分の持つ1頭のラクダを貸してくれ、それで配分しなさいと提案してくれました。
17頭+1頭=18頭で、
先ず長男のための1/2=9頭を配分。
次に二男のための1/3=6頭を配分。
最後に三男のための1/9=2頭を配分。
総計17頭になって1頭残ったので、老人に返済して丸く収まった。
この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?
まさに、
1+1=2、1+2=3なら1+3=4になるかどうかわからない、という数学(算数)の意義が問われているのです。
言い換えれば、
1+1=2と常識のように思っているが、実は常識ではなく、1+1=3の場合もあれば、1+1=4の場合もあり・・・1+1=9の場合もあり、1+1=10の場合もあるのです。
現に、
二進数では、1+1=10(この場合はジュウと呼ばずにイチゼロと呼ぶ)になるのです。
そうすると、
従来の数学(算数)というものは、十進数の自然数に限定されたものであることがわかってきます。
そして、
十進数も二進数も自然数という人工数から派生したものに過ぎないのに、1+1=2とわれわれは盲信しているのです。
では、
唯一数である素数では、1+1=2でしょうか?
では、
唯一数である素数では、1+2=3でしょうか?
では、
唯一数である素数では、1+3=4でしょうか?
ところが、
素数には4など存在しません。
では、
唯一数である素数では、1+3=5なのでしょうか?
では、
唯一数である素数では、1+5=7なのでしょうか?
では、
われわれの人間の指はなぜ10本なのでしょうか?
では、
タコの足はなぜ8本なのでしょうか?
では、
イカの足はなぜ10本なのでしょうか?
実は、
われわれ人間の指は、本当の数は5本なのです。
タコの足は、本当の数は3本なのです。
イカの足は、本当の数は5本なのです。
そして、
サルの指は、本当の数は7本なのです。
まさに、
3か5か7という三つ子素数しかないのです。
なぜか?
それは今のところ、われわれ人間にはわかりません。
地球は一日24時間の自転、一年365日の公転しているのは事実です。
なぜか?
それは今のところ、われわれ人間にはわかりません。
だが、
それは厳然とした事実です。
まさに、
森羅万象の存在意義を、われわれ人間の科学ごときでわかろうとする、その姿勢自体が傲慢不遜に他ならないのです。
問題は、
事実をどう受けとめるかのその姿勢にあるのです。
人間の寿命は今ではおよそ80年まで延びていますが、それは先進社会だけの話で、未開発地のアフリカでは、今でも平均寿命が30年にも満たない人間社会が現存しているのです。
まさに、
先進社会になればなるほど、寿命は延びているわけです。
逆に言えば、
後進社会になればなるほど、寿命は延びないわけです。
まさに、
一見道理に沿っている。
なぜなら、
先進社会は豊饒の世界だから長生きも可能だが、後進社会は極貧の世界だから長生きなど土台無理なのでしょう。
ところが、
先進社会で生きようが、後進社会で生きようが、人間である限り、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送らなければなりません。
まさに、
逆道理に沿っている証明に他なりません。
なぜなら、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生が避けられない、われわれ人間にとって、寿命が延びることは苦痛が増長する以外の何者でもないからです。
現に、
2000年以上も前の古代ギリシャの詩人ホメロス作『イリアス』の中で、こんな逸話があります。
ある母親が、“この世的成功をおさめた二人の息子のために、何か助言を?”とヴィーナス神に祈りをした。
そうすると、その二人の息子が天に召された。
号泣しながら母親はヴィーナス神に抗議したら、ヴィーナス神はこう答えた。
“人間にとって最も願わしいことは、この世に生まれてこないことであるが、ひとたび生まれてきた者にとって、最も願わしいはできるかぎり早く死ぬことである”
まさに、
生きることは苦痛以外の何者でもなく、死こそが苦痛の唯一の解放者、と神自らが認めているのです。
まさに、
先進社会になればなるほど、寿命は延び、苦痛は増えるわけです。
逆に言えば、
後進社会になればなるほど、寿命は延びない分、苦痛も減るわけです。
そうしますと、
生きるとは苦であり、死は生きる苦からの解放者ということになります。
まさに、
死の真の意義がここにあるのです。
生きるとは苦であり、死は生きる苦からの解放者に他ならない。
まさに、
死の真の意義がここにある。
では、
一体いつ、死を好くないものと、われわれ人間は信じ込むようになったのでしょうか?
社会レベルでは、
今から3300年前に、多神教世界から一神教世界に移行した際に、人間の心は二分心から一分心になった時でしょう。
個人レベルでは、
赤ん坊として生まれて、言葉をおぼえはじめた時でしょう。
まさに、
この時こそ、アダムとイブがエデンの園から追放された物語で象徴されている時に他ならないのです。
まさに、
神の言葉を失った時に他ならないのです。
現代風に言えば、
自然社会や純真無垢な人間の子供なら失っていない地球意識を忘却した時に他ならないのです。
まさに、
地球意識を忘却した反対給付として、人類は死の存在を知ったわけです。
だから、
地球意識を忘却した、われわれ人間の大人は、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥ったのです。
地球意識を忘却した反対給付として、人類は死の存在を知った。
だから、
地球意識を忘却した、われわれ人間の大人は、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥った。
逆説的に言えば、
地球意識さえ失わなければ、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る必要はなかったのです。
言い換えれば、
地球意識を失ったから、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥ったのです。
まさに、
人生における四苦八苦は、必要悪に他ならない証明です。
逆に言えば、
地球意識を失うことは、不要善に他ならない証明です。
従って、
死を知ることは、不要善に他ならない証明です。
まさに、
死とは、不要善に他ならない証明です。
ところが、
われわれ人間の大人は、生きる苦と死ぬ苦を同じ四苦の一つと信じ込んできたのです。
まさに、
生きる苦は必要悪であるのに対し、死ぬ苦は苦ではない不要善だったのです。
では、
人生は四苦八苦と仏教が教えるところの、生老病死の四苦は一体何だったのでしょうか?
まさに、
仏教が起こった西暦前5世紀当時の世界は、西洋社会よりも東洋社会の方が先進社会だったゆえ、生きる苦の中に、老いる苦、病気の苦とともに死ぬ苦を、まさに文字通り味噌も糞もいっしょにしたのです。
一方、
当時の西洋社会は後進国だったゆえ、最大の生きる苦は、自然社会に通じる貧乏の苦であって、老いる苦や病気の苦、ましてや、死ぬ苦といった概念はなかった中で、一神教のキリスト教が誕生したのです。
まさに、
多神教にとっての苦は、一神教にとってはしょせん贅沢な悩みに過ぎなかったのです。
言い換えれば、
老いる苦、病気の苦など悩みのうちに入らないのです。
なぜなら、
老いる苦、病気の苦は、しょせん、必要悪に過ぎず、自然社会では必要悪など入り込む隙は一切ないからです。
では、
この事実は、一体何を意味しているのでしょうか?
まさに、
必要悪など楽ではないことを意味しているのです。
そして、
必要悪の極致に生があるのです。
逆に言えば、
不要善など苦ではないことを意味しているのです。
そして、
不要善の極致に死があるのです。
だから、
老いること、病気になること、そしてそういったことを含め、生きるということは、すべて必要悪に過ぎず、必要悪とは楽ではないだけのことなのです。
一方、
死ぬことは、不要善に他ならず、不要善とは苦ではないのです。
まさに、
不要善とは実在するもので、必要悪とは不要善の不在概念に過ぎないことの証左に他なりません。
まさに、
必要悪と不要善は、表裏一体の一枚コインを成す二元要因に他ならないのです。
まさに、
不要善とは実在するもので、必要悪とは不要善の不在概念に過ぎないことの証左に他ならない。
まさに、
必要悪と不要善は、表裏一体の一枚コインを成す二元要因に他ならない。
そして外してならないのは、
必要悪と不要善は、二律背反するのではなく、補完し合う点にあります。
まさに、
必要悪=不要善に他なりません。
まさに、
死とは実在するもので、生とは死の不在概念に過ぎないことの証左に他ならない。
まさに、
生と死は、表裏一体の一枚コインを成す二元要因に他ならない。
そして外してならないのは、
生と死は、二律背反するのではなく、補完し合う点にあります。
まさに、
生=死に他なりません。
では、
この事実は、一体何を示唆しているのでしょうか?
まさに、
死というものは未来にあるのではなく、『今、ここ』にある証左に他なりません。
平たく言えば、
死はいつも突然襲ってくる所以に他なりません。
表現を換えれば、
われわれ人間の大人は、死の存在を知ったその瞬間(とき)から、生きるとは死ぬために生きてゆくことになったのです。
ところが、
われわれ人間の大人の誰ひとり、この現実に気づかずに生きてきたのです。
まさに、
われわれ人間の大人、最大の悲劇がこの点にあるのです。
現に、
死を知った結果、それまでなかった悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥ったのです。
では、
一体何のために、死を知ったのか?
まさに、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に無縁な一生を送るために、死を知ったのです。
まさに、
生きることは必要悪なのに対して、死ぬことが不要善に他ならない証左です。
必要悪は、まさに、文字通り、映像の世界の考え方に他なりません。
一方、
不要善は、まさに、文字通り、実在の世界の在り方に他なりません。
では、
文字通りとは?
まさに、
必要悪=映像世界
不要善=実在世界
ということに他なりません。
言い換えれば、
見えることが、実在しないということに他なりません。
だから、
必要悪なのです。
一方、
見えないことが、実在するということに他なりません。
だから、
不要善なのです。
まさに、
人間社会と自然社会が、まったく逆さまであることの証明であり、且つ、自然社会が実在して、人間社会は自然社会の不在概念に過ぎないことの証明です。
まさに、
自然社会にとっては、不要善が当たり前であって、死だけが唯一実在するもので、生きるということは死の不在状態に過ぎず、いつどこでどんなふうにわけもなく死が起こり得る世界に他ならないのです。
一方、
人間社会にとっては、必要悪が当たり前であって、生きることだけが唯一実在するもので、死ぬということは生きることの不在状態に過ぎず、いつどこでどんなふうにわけもなく襲ってくる死に怯えて生きる世界に他ならないのです。
まさに、
死を不要善として捉えている世界(宇宙や自然社会といった正さま(まともな)世界)では、死は好くないことではないのです。
だから、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に無縁な一生を送ることができるのです。
一方、
生を必要悪として捉えている世界(人間社会)では、死は好くないことなのです。
だから、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥るのです。

「死について」−完−