第三章 消滅の恐怖=欠落感

記憶の忘却(消滅)が、死の誤解を生んだ。
まさに、
わたしたちが死を怖れるのは、死の誤解に依拠するものであったわけです。
まさに、
死とは自己の記憶の死に他ならず、自己(意識と肉体)の死では決してなかったのです。
そして、
記憶の死とは、自我意識(Ego)の死に他ならなかったのです。
まさに、
自我意識(Ego)=記憶に他ならなかったのです。
平たく言えば、
“自分は・・・”という自我意識(Ego)の正体は記憶の積み上げに他ならなかったのです。
更に、
記憶の積み上げとは、自分に対する他者の感想・意見・評価に他なりません。
まさに、
“自分は・・・”という自我意識(Ego)の正体とは、自分の自分に対する感想・意見・評価ではなくて、他者の感想・意見・評価に他ならなかったのです。
まさに、
“自分は・・・”という自我意識(Ego)が無数の自分といわれる所以がここにあるのです。
そうしますと、
記憶の消滅とは、無数の自分の“自分は・・・”という自我意識(Ego)の消滅に他ならなかったわけです。
言い換えれば、
死とは、無数の自分の“自分は・・・”という自我意識(Ego)の消滅に他ならなかったわけです。
従って、
わたしたちが怖れている死の正体とは、いつも胸の辺りで囁いている無数の自分の“自分は・・・”という自我意識(Ego)の消滅に他ならなかったわけです。
平たく言えば、
わたしたちが普段“心”と言っている、頭で考えて胸の辺り(心臓の辺りだから心と呼んでいる)で囁いている代物が消えてしまうことこそ死の正体に他ならなかったのです。
要するに、
頭(脳)と胸(心臓)の辺りから発する声(音)が永遠に消えることを死と呼んでいるわけです。
それはまるで、トーキ映画から急に音声が落ちたサイレント映画に変位したようになり、映像と音声がセットで映し続けられてきたものが急に音声がなくなると、映像までが落ちてしまった感じがする。
まるで、口パク歌手の映像を見ているような感じがし、何か欠落しているように思える。
まさに、
死んだ後の感覚とは、欠落の感覚になる。
まさに、
死の恐怖の正体である消滅の恐怖とは、欠落感に他なりません。