第十章 二種類の死の恩恵

ものごとには功罪両面が必ずあります。
一方的に好いものもないし、
一方的に悪いものもない。
一病息災。
持病を一つ持っていて、普段から気をつけているから、大きな病気にならない。
そうすると、
病気にも恩典があることになります。
無病息災。
病気といったものが一切なく、いつも無事でいられる。
病気が一切ない状態を健康というわけですから、無病息災とは健康息災ということに他なりません。
畢竟、
病気は一切好くないものではなく、好い面もあるわけです。
ところが、
わたしたちは、無病の状態である健康を追い求め、病気を忌み嫌って生きています。
要するに、
実現が土台無理な考えに執着して生きているわけです。
まさに、
わたしたち人間の大人だけが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥った原因に他なりません。
言い換えれば、
実現が土台無理な考えに執着するという自己矛盾を起こした二重の錯覚こそ、わたしたち人間の大人だけが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥った原因に他なりません。
では、
自己矛盾がなぜ二重の錯覚なのでしょうか。
まさに、
生・死二元論における二重の錯覚に他なりません。
つまり、
生(生きる)と死(死ぬ)二元要因の本質は、死(死ぬ)こそが実在であり、生(生きる)は死(死ぬ)の不在概念に過ぎず、且つ、生(生きる)と死(死ぬ)は補完関係にあるべきを、二律背反関係と捉えた二点にあるからです。
その結果、
わたしたし人間は、生(生きる)を追い求め、死(死ぬ)を忌み嫌うという錯覚をするようになったのです。
まさに、
この生(生きる)に対する二重の錯覚こそ、裏を返せば、死(死ぬ)に対する二重(二種類)の恩恵に他ならなかったのです。