(その八)死の実相

五感の死
五感(五観)以外の肉体が年中無休なのは、地球や太陽や他の星が年中無休で運動をしているのと同じメカニズムになっているからです。
従って、星にとっての五感(五観)とはその表面(外皮)に他なりません。
五感(五観)とは、まさに自他の区分けをする部分観機能であります。
生とは、部分観に他ならない。
死とは、部分観から全体感への移行に他ならない。
星(恒星)の死であるブラックホールも、まさに部分観から全体感への移行に他ならず、地球(惑星)は、ブラックホールになった太陽(恒星)に吸い込まれることによって死を迎えることになります。
地球上の生き物が母なる大地に戻るのも地球に吸い込まれることに他なりません。
死とは、部分観が消滅する、つまり、五感(五観)の死に他ならない。
死とは、五感(五観)の死、つまり、自他の区分けの消滅に他ならない。
従って、
わたしたち人間の死とは、観ることの停止に過ぎないと言っても過言ではありません。
視覚動物であるわたしたち人間の死とは、観ることの停止に過ぎない。
つまり、五感(五観)の死に過ぎない。
つまり、自他の区分けの消滅に過ぎない。
つまり、映像(映画)の終了に過ぎない。
わたしたちは映画を観るために映画館に行き鑑賞席に就く。
いわゆる誕生です。
わたしたちは鑑賞席で映画を観る。
いわゆる生、つまり、人生です。
わたしたちは映画が終了して鑑賞席を離れて家路に戻る。
いわゆる死です。
人生とはいわゆる映画鑑賞に過ぎない。
夢は見るものではなく、夢は観るものです。
視覚動物である人間は、夢を見るものと勘違いしている。
全盲の人は夢を聞いているし、犬は夢を臭っている。
五感(五観)とは映像鑑賞用の器官であり、まさしく、他者とは映像である証明です。
そして、映画鑑賞を終え母なる大地である地球という故郷に戻るのは、年中無休の肉体だけです。
肉体は死んでも魂は永遠などという考え方は、最早、二十一世紀では通用しません。
葬式や墓など愚の骨頂であり、権益を持つ人間の金儲けに利用されているに過ぎません。
星(恒星)の死であるブラックホールとは、重力が極大状態になることを指します。
星(恒星)とは自ら光を発する星のことです。
太陽がそうです。
地球は惑星なので自ら光を発することはできませんがやはり重力はあります。
だから、宇宙の旅に出るには重力に抗うだけの速度で宇宙に向かって飛び立たなければなりません。
その速度を脱出速度と言います。
地球の脱出速度は、高度によって変わりますが、およそ秒速10KM、つまり、時速36000KMの速度でなければ地球から離れることはできません。
一方、自ら光を発する太陽の脱出速度は秒速620KMですが、若しも、太陽の重力がもっと大きくなり、脱出速度が秒速30万KMを超えると、自ら発する光さえも飛び立つことができなくなり、周りの宇宙からは見えなくなります。
光の速度が秒速30万KMだからです。
星は存在するのに見えない。
それをブラックホールと言うのです。
自らの重力に押し潰された星とも言えるわけで、まさに星(恒星)の死であります。
自らの生命力(光)を発する物体にとっては自らの重力に押し潰されることを死と言うのであります。
一方、太陽(恒星)の子供(惑星)である地球の死は、太陽の死によって吸い込まれてやはり死ぬのです。
わたしたち人間が死ぬのも、地球の重力に吸い込まれて死ぬわけで、まさに母なる大地に戻るのが死であります。
死とは、自分を生んでくれた親との重力のバランスが崩れた時にやって来るのです。
星(恒星)の死とは、自らの重力に押し潰されてブラックホールになることです。
惑星の死とは、ブラックホールになった親星(恒星)の重力に吸い込まれることです。
つまり、重力によって収縮する最終段階が死なのです。
わたしたちの宇宙は、137億年前にビッグバンによって誕生したと言われ、その直後に重力が先ず枝分かれして、更に、強い力、弱い力、電磁気の力と分岐し、その過程の中で、正物質と反物質のX粒子が対消滅して光が誕生して以降、ずっと膨張を続けている。
風船を膨らませ続けるといつか破裂して収縮に転じ元に戻るが、その風船は二度と膨らませることはできない。
何故なら穴が開いているからです。
宇宙も風船と同じメカニズムです。
ビッグバンが誕生。
膨張と収縮が生。
穴の開くブラックホールが死。
従って、生、つまり、人生とは必ず膨張と収縮で成り立っている“運動の光と音の世界”であり、死(誕生)とは“静止の暗闇と沈黙の世界”であるのです。
誕生とは重力による光の誕生に他ならない。
死とは重力による光の消滅に他ならない。
まさに、五感(五観)の誕生に他ならない。
まさに、五感(五観)の死に他ならない。


病気の実相

地球上に存在する生命体の死とは地球の重力との不均衡現象である。
肉体にとっての死とは心臓機能の停止に他なりません。
脳死は五感(五観)の機能停止、つまり、部分観の死に他なりません。
死のプロセスは、先ず地球との重力との不均衡によって心臓機能が停止して肉体の死が起こり、肉体が死ぬことによって五感(五観)が機能停止して脳が死ぬ。
肉体が先ずありきで、五感(五観)によって生じる「想い」、つまり「こころ」や「精神」や「霊」や「魂」と称してきたものは肉体の死によって消滅するのです。
“肉体は死んでも魂は永遠である”ではなかったのです。
“魂は死んでも肉体は永遠である”だったのです。
生命とは重力という生命エネルギーに基づく運動形態であり、心臓とは重力を燃料(生命エネルギー)とするエンジンなのです。
死とは病気で起こる現象ではなくて、地球の重力との不均衡によるものなのです。
病気の存在理由は、生にあって死にあるのではない。
つまり、病気とは健康になるためのステップに他ならない。
病気=病(やまい)の丙状態。
健康=病(やまい)の甲状態。
生きるとは、病(やまい)の甲乙丙状態の繰り返しに他ならない所以であります。
病(丙)→病(甲)→病(乙)→病(丙)→病(甲)・・・。
病気、つまり、病(やまい)の丙状態になったら必ず病の甲状態、つまり、健康に戻るのです。
病気とは健康のための病気であるのです。
病気の実相がここにあります。
健康の幻想がここにあります。
ところが、わたしたち人間は幻想を追い掛け、実相を忌み嫌う。
病気とは健康のための病気であるのに、病気を忌み嫌っては健康には絶対になれない。
幸福を追い掛け、不幸を忌み嫌う。
不幸とは幸福のための不幸であるのに、不幸を忌み嫌っては幸福には絶対になれない。
富を追い掛け、貧を忌み嫌う。
貧乏はお金持ちのための貧乏なのに、貧乏を忌み嫌ってはお金持ちには絶対になれない。
天国を追い掛け、地獄を忌み嫌う。
地獄は天国のための地獄であるのに、地獄を忌み嫌っては天国には絶対に行けない。
神を追い掛け、悪魔を忌み嫌う。
悪魔は神のための悪魔であるのに、悪魔を忌み嫌っては神は絶対にやって来ない。
そして、
死とは生のための死である。
死の実相がここにあります。
生の幻想がここにあります。
ところが、わたしたち人間は幻想を追い掛け、実相を忌み嫌う。
死とは生のための死であるのに、死を忌み嫌っては充実した生を絶対に送れない。
『今、ここ』とは昨日・今日・明日のための『今、ここ』であるのに、『今、ここ』を忌み嫌っては昨日・今日・明日は絶対にやって来ない。
ところが、わたしたち人間は幻想(映像)である昨日・今日・明日を追い掛け、実相である『今、ここ』を避けて生きているのです。
どうしようもない生き物です。
幻想(映像)である昨日・今日・明日を追い掛け、実相である『今、ここ』を避けて生きている、どうしようもない生き物・人間。
昨日・今日・明日を時間だと捉えた結果であります。
昨日・今日・明日は時間ではなく、空間であったのです。
わたしたちは、時間と空間、つまり、時空間の世界(宇宙)などに存在していません。
わたしたちは、空間の世界(宇宙)、つまり、“静止の暗闇と沈黙の世界(宇宙)”に存在しているだけです。
ただ、『今』という汽車に乗って旅をしている。
つまり、“運動の光と音の世界(宇宙)”という汽車に乗って旅をしている。
それが人生に他ならない。
『今』という汽車こそ時間の正体、つまり、虚時間であります。
『今』という汽車の窓外に『ここ』という空間が存在する。
『今、ここ』の正体であります。
『ここ』は静止していて、『今』が運動しているのですが、『今』という汽車に乗って人生という旅をしている自分にとっては、自分が乗っている『今』が静止していて、『ここ』が運動しているように観える。
運動しているように観える『ここ』が昨日・今日・明日の正体に他ならない。
自分が乗っている地球が運動していて、天は静止しているのに、自分が静止していて、天が運動していると錯覚するのと同じ現象であります。
どうしようもない生き物・人間の錯覚の原点は、空間である昨日・今日・明日を時間と捉えたことにあるのです。
本当の時間とは『今』しかないのです。