(その七)自然社会 V.S. 人間社会

自然 V.S. 科学
人間の平均寿命が80才まで伸びた日本のような先進国の一方で、平均寿命が30才にも満たない後進国が山とあります。
人口が増えている国の平均寿命が低く、人口が減っている国の平均寿命が高いという現象であります。
エイズや飢餓が原因で平均寿命が30才にも満たないアフリカの国で爆発的な人口急増現象が見られるわけです。
一見、逆現象のようです。
豊かな衣食住と医療の発達で平均寿命が伸びているなら人口も増えていい筈なのに、人口が減っている先進国。
貧しい衣食住と医療の不足で平均寿命が縮んでいるなら人口も減っていい筈なのに、人口が増えている後進国。
この逆現象を一体どう捉えたらいいのか。
先進国では、
余るほどの衣食住環境を持つ両親が世襲・相続できるのに何故子供を生まないのか。
余るほどの医療環境を持つ両親が病気の心配の無いのに何故子供を生まないのか。
後進国では、
エイズになっている両親が遺伝するのに何故子供を生むのか。
飢餓で苦しんでいる両親が食物を与えられないのに何故子供を生むのか。
一見、理解に苦しむ現象であるわけです。
わたしたち人間だけが有する知性では理解できない現象が起きているからです。
知性では到底理解できない現象とは、自然の食物連鎖の法則に因るものです。
知性に基づく科学ですべてを解決しようとする人間社会ですが、現実はそういう風には行かないことを、この現象は示唆しているのです。
知性を有しているわたしたち人間だけが、“生が好くて死が悪い”という好いとこ取りの相対一元論の「考え方」で生きているからです。
知性を有していない他の生き物は、“生も死もない”という絶対一元論の「在り方」で生きているからです。
「考え方」と「在り方」二元が分裂する人間。
「在り方」一如の他の生き物。
「在り方」が「考え方」を打ち負かすのは明白です。
一見、逆現象に見える理由の所以がここにあるのです。
科学の力で平均寿命を80才まで伸ばした人間もいますが、自然の食物連鎖の法則で平均寿命が30才にも満たないようにされた人間もいて、結果的には依然人口が爆発的増加をしているのですから、自然の食物連鎖の法則は厳しい反応をこれからも人間にしてくる筈です。
人口が減少している先進国にとって、人口が急増しているのは後進国であって、自分たちの責任ではないと思っているでしょうが、それは大きな間違いであります。
数の少ない先進国が、数の多い後進国から搾取してきた結果であります。
近代社会になって人口が急増したのであって、近代社会以前の後進国では人口は急増などしていなかった。
欧米列強帝国主義が植民地政策を採って後進国から搾取しだした結果、自己防衛本能の一環として人口が増えだしたのです。
これは明らかに自然の食物連鎖の法則の為せる業であります。
シマウマを食べるライオンが、今日の糧だけでなく、明日の糧も見込んでシマウマを大量に殺すようになると、シマウマは本能的に絶滅を怖れて大量の子供を生むようになる。
食う側(支配者側)が余計な食う量を増やすと、食われる側(被支配者側)は余計な食われる量を増やす。
それが自然の食物連鎖の法則であり、延いては、食う側(支配者側)も、食われる側(被支配者側)も、自然の食物連鎖の法則を破った罰として絶滅させられるのです。
従って、他の生き物の自然の社会では、決して余計な食う量を増やすことはしません。
今日の糧だけで満足するのです。
人間社会だけが、今日の糧だけで満足せず、明日の糧まで溜め込もうとする。
その結果、支配・被支配二層構造社会を形成してしまい、オス社会を形成してしまい、世襲・相続の差別制度まで形成してしまい、挙句の果てに、差別・不条理・戦争の横行する社会にまで行き着いてしまったのです。
この悪循環はピークにまで達しています。
従って、あとを待ち受けているのは、自然の食物連鎖の法則の厳しい対応による絶滅の事態であります。
現に、カエルといった両生類は絶滅の危機に陥っており、世界の珊瑚も海温があと4℃上がると絶滅すると言われ、哺乳類の北極熊や鯨も絶滅の危機に直面しています。
これらの現象はすべて人間の為せる業であり、後進国において平均寿命がますます低くなる一方で人口が急増しているのと呼応しており、これらの現象の元凶は、先進国が自分たちの欲望のために搾取を続けていることにあるのです。
近代に入って人口が急増しはじめた原因であります。
今日の糧だけで満足せず、明日の糧まで追い求めるのが原因であります。
拝金主義とは、今日の糧だけに満足せず、明日の糧、明後日の糧、・・・、死ぬまでの糧を追い求めることであり、超拝金主義とは、今日の糧だけに満足せず、明日の糧、明後日の糧、・・・、死ぬまでの糧、更には、死んだ後までの糧を追い求めることに他なりません。
この悪循環現象を食い止めるには、“生と死を超える”という三元論の全体観に辿り着くしか方法はないのであります。
このまま人類が悪循環現象を続けるなら、地球は必ず人類を排除しに掛かります。
自己の身体に異変が生じると、自己の自然治癒力が異変箇所を排除しに掛かります。
地球の身体に異変が生じると、地球の自然治癒力が異変箇所を排除しに掛かります。
わたしたち人間は地球から生まれたのですから、わたしたち人間の肉体や想いの機能は、地球の肉体や想いの機能から生まれたと言っても過言ではありません。
従って、わたしたち人間の肉体が反応するようなことは地球も反応するということを決して忘れてはなりません。
従って、わたしたち人間の想いが反応するようなことは地球も反応するということを決して忘れてはなりません。
他の生き物たちは、地球(自然)の法則、つまり、絶対一元論に従って生きています。
わたしたち人間だけが、知性を得たため、つまり、相対二元論に従って生きています。
更に問題は、
わたしたち人間だけが、人間社会の間違った法則、つまり、好いとこ取りの相対一元論に従って生きていると錯覚しています。
相対二元論は絶対一元論が自己完結する絶対三元論に到達するための過程、つまり、必要善に他ならないのに、わたしたち人間は好いとこ取りの相対一元論という逸脱した過程、つまり、必要悪に踏み込んでしまっているのです。
必要善は存在を認められていますが、必要悪は必ず排除されます。
わたしたち人間にも、誕生・生・死というサイクル(これを円回帰運動と呼びます)があるのは、宇宙全体が誕生・生・死という円回帰運動をしているからです。
絶対一元論・相対二元論・絶対三元論も円回帰運動に他なりません。
従って、
好いとこ取りの相対一元論、つまり、“生が好くて死が悪い”という間違った二元論から、本来の相対二元論、つまり、“生と死は同じで、死が本質であり、生は死の不在概念に過ぎない”という相対二元論の生き方に軌道修正しない限り、人類は地球から必ず排除されるでしょう。
“死は随所にある”
野生の生き物にとって常識である。
まさに、死の観念とは『今、ここ』という時間(垂直世界の虚時間)の観念に他ならない証左であります。
野生の生き物が持っている体内時計の目盛りは虚時間の目盛りである。
従って、死の観念とは虚時間の観念、つまり、『今、ここ』に他なりません。
“死は随所にある”証左であります。
食べたいから食べ、眠たいから眠り、セックスしたいからセックスする。
それらの欲望は体内時計の目盛りである虚時間に基づいて発生するもので、未来という目盛りである実時間に基づいているものではありません。
だから、明日のための糧、明日のための睡眠、明日のためのセックスの意識など一切ありません。
一方、
“死はいつか必ずやって来る”
知性を得た生き物・人間の常識である。
まさに、死の概念とは未来という時間(水平世界の実時間)の概念に他ならない証左であります。
わたしたち人間が持っている時計の目盛りは実時間の目盛りである。
従って、死の概念とは実時間の概念、つまり、過去・現在・未来に他なりません。
“死はいつか必ずやって来る”証左であります。
午前7時になったから起きたくもないのに無理やり起き、午後0時になったから食べたくもないのに無理やり食べ、午後10時になったから眠たくもないのに無理やり眠ろうとし、午後10時に無理やり眠るために無理やりセックスする。
それらの欲望は時計の目盛りである過去・現在・未来という実時間に基づいて発生するもので、『今、ここ』いう目盛りである虚時間に基づいているものではありません。
だから、明日のための糧、明日のための睡眠、明日のためのセックスをし、挙句の果てに、明日のための差別・不条理・戦争に明け暮れるのであります。
“死は随所にある”ことを感じる『今、ここ』という虚時間の体内時計。
“死はいつか必ずやって来る”ことを考える過去・現在・未来という実時間の時計。
二つの時間の目盛りを表わす二つの時計。
体内時計と体外時計と言い換えてもいいでしょう。
野生の生き物は、時間の観念を持ち、体内時計を肉体全体で感じている。
わたしたち人間だけが、時間の概念を持ち、体外時計を五感で観ている。
観念とは全体感に他ならない証左であります。
概念とは部分観に他ならない証左であります。
「在り方」とは全体感に他ならない証左であります。
「考え方」とは部分観に他ならない証左であります。
感じるとは「在る」ことであります。
観じるとは「考える」ことであります。
つまり、
五感とは観じるものであり、感じるものではありません。
肉体とは感じるものであり、観じるものではありません。
五感ではなくて五観であります。
これも人間が錯覚してきた大きな問題です。
視覚器官である二つの目。
聴覚器官である二つの耳。
嗅覚器官である二つの鼻。
味覚器官である一つの舌。
触覚器官である全身の肌。
肉体の外皮にあたる部分がいわゆる五感です。
つまり、自分と他の境界線にある器官で、自他の区分けをする器官が五感であるわけです。
自他の区分けをする器官とは、全体感を感じる器官ではなく、部分観を観じる器官であるわけですから、五感ではなく、五観でなければなりません。
感じるとは「在る」ことである所以です。
観じるとは「考える」ことである所以です。
要するに、わたしたち人間は肉体で感じ、五観で考えている動物だと言ってもいいでしょう。
わたしたち人間は、大脳で考えているわけですが、五観で受信した外部情報を先ず大脳新皮質で一回目の振り分けをして、更に大脳古皮質で二回目の振り分けをして、各器官に伝達される。
一回目の振り分けが「考える」ことで、二回目の振り分けが「在る」ことです。
理性(新皮質)が本能(古皮質)を抑えているわけです。
他の生き物は、五感で受信した外部情報を大脳古皮質で振り分けをして各器官に伝達される。
まさに本能だけの「在る」だけです。
従って、他の生き物は五感によって他者との全体感を感じているわけですが、わたしたち人間は五観によって他者との差別観(部分観)を観じているわけです。
五感なら自他の区分けは起こらない。
五観だから自他の区分けが起こる。
『今、ここ』という体内時計と過去・現在・未来という体外時計のギャップは五感(五観)の所為であるわけです。
“死は随所にある”ことを感じながら生きている野生の生き物は五感で自然との一体感を感じている。
自然、つまり、地球のことを母なる大地と信じている。
“死はいつか必ずやって来る”ことを考えながら生きているわたしたち人間は五観で自然との部分観を考えている。
自然、つまり、地球のことを搾取の対象と考えている。
土地を自分たちのものだと思い領土争いをする。
金や石油を掘り起こしては金儲けの手段に利用して、挙句の果てに、その利権争いのために戦争をする。
放射性元素を利用して原子爆弾をつくり、核実験という名目で数え切れないほど地球を傷つける。
人間はまさに地球を搾取の対象と考えていると言われても仕方ない。
その張本人は、政治家と経済人と科学者であります。
宗教者も彼らに与した輩です。
つまり、権力と金力と名誉を貪る連中であります。
こういった連中がトップに立つ人間社会を、地球はもう許してくれません。
やはり、人間の根本的価値観を変えなければならない。
その鍵は、“死はいつか必ずやって来る”という支離滅裂な考え方から、“死は随所にある”という考え方に変えることにあるのです。
“死は突然襲って来る”。
“死は随所にある”証左であります。
しかし、わたしたち人間は愚かにも“死はいつか必ずやって来る”という支離滅裂な考え方に嵌り込んでいるのです。
“死は随所にない”なら、“死はいつかやって来るかも知れない”、若しくは“死は永遠にやって来ないかも知れない”の何れしかない筈で、“死はいつか必ずやって来る”ことは絶対にあり得ません。
“死は突然襲ってくる”ためには、死を常に内在していなければなりません。
“死は随所にある”、つまり、死が実在で、生は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“病気は突然襲って来る”。
病気を常に内在しているからです。
つまり、病気が実在で、健康は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“不幸は突然襲って来る”。
不幸を常に内在しているからです。
つまり、不幸が実在で、幸福は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
従って、
“メスは突然襲って来る”。
メスを常に内在しているからです。
つまり、メスが実在で、オスは人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“悪は突然襲って来る”。
悪を常に内在しているからです。
つまり、悪が実在で、善は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“弱は突然襲って来る”。
弱を常に内在しているからです。
つまり、弱が実在で、強は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“愚は突然襲って来る”。
愚を常に内在しているからです。
つまり、愚が実在で、賢は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“貧は突然襲って来る”。
貧を常に内在しているからです。
つまり、貧が実在で、富は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“地獄は突然襲って来る”。
地獄を常に内在しているからです。
つまり、地獄が実在で、天国は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“悪魔は突然襲って来る”。
悪魔を常に内在しているからです。
つまり、悪魔が実在で、神は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
“被支配者は突然襲って来る”。
被支配者を常に内在しているからです。
つまり、被支配者が実在で、支配者は人間が勝手に捏造したその不在概念に過ぎない所以です。
ところが、わたしたち人間は、随所にある、つまり、自己に常に内在しているモノを否定し、自分たちが勝手に捏造したその不在概念に過ぎないモノを肯定しているのです。
知性を得たが故の分裂症生き物・人間の所以であります。
もういい加減、この考え方を変えなければ、わたしたち人間の明日はありません。

コペルニクス的どんでん返し
わたしたち人間は「正しい考え方」で生きる道しかない。
いまさら、自然(地球)世界に生きる他の生き物のような「在り方」だけで生きることはできない。
いまさら、絶対一元論の世界に後戻りすることは出来ません。
しかしながら、相対二元論の世界に居座ることも出来ません。
わたしたちにとっての相対二元論の世界は、好いとこ取りの相対一元論に他ならないからです。
相対二元論の落とし穴がここにあります。
相対二元論の本質は絶対三元論へ通じる道に他なりません。
相対二元論の正体は絶対一元論へ落ちる道に他なりません。
相対二元論は一元論と三元論への橋渡し役に他なりません。
相対二元論とは本質と正体という二元要因に他なりません。
つまり、本質と正体という一枚のコインの表裏一体を表わしているのです。
わたしたち人間が、嵌り込んでいる好いとこ取りの相対一元論とは、実体のない正体に目を向け、実体のある本質から目を避けている結果生まれた錯覚であります。
錯覚とはどんでん返しの逆説現象に他なりません。
正しい「考え方」とは、まさにコペルニクス的常識のどんでん返しが鍵なのです。
錯覚とはコペルニクス的どんでん返しの逆説現象に他ならない。
“生が好くて死が悪い”のが錯覚だったのです。
“死が好くて生が悪い”のがコペルニクス的どんでん返しの考え方です。

“オスが好くてメスが悪い”のが錯覚だったのです。
“メスが好くてオスが悪い”のがコペルニクス的どんでん返しの考え方です。

“善が好くて悪が悪い”のが錯覚だったのです。
“悪が好くて善が悪い”のがコペルニクス的どんでん返しの考え方です。

“強が好くて弱が悪い”のが錯覚だったのです。
“弱が好くて強が悪い”のがコペルニクス的どんでん返しの考え方です。

“賢が好くて愚が悪い”のが錯覚だったのです。
“愚が好くて賢が悪い”のがコペルニクス的どんでん返しの考え方です。

“富が好くて貧が悪い”のが錯覚だったのです。
“貧が好くて富が悪い”のがコペルニクス的どんでん返しの考え方です。

“幸福が好くて不幸が悪い”のが錯覚だったのです。
“不幸が好くて幸福が悪い”のがコペルニクス的どんでん返しの考え方です。

“天国が好くて地獄が悪い”のが錯覚だったのです。
“地獄が好くて天国が悪い”のがコペルニクス的どんでん返しの考え方です。

“神が好くて悪魔が悪い”のが錯覚だったのです。
“悪魔が好くて神が悪い”のがコペルニクス的どんでん返しの考え方です。

“健康が好くて病気が悪い”のが錯覚だったのです。
“病気が好くて健康が悪い”のがコペルニクス的どんでん返しの考え方です。

“支配者が好くて被支配者が悪い”のが錯覚だったのです。
“被支配者が好くて支配者が悪い”のがコペルニクス的どんでん返しの考え方です。