(その六)差別・不条理・戦争のない社会

死の概念を持った人間だけが、自分の命は自分で絶つ、つまり、自殺する権利を持っている。
自殺とは権利なのです。
ところが、わたしたち人間は自殺行為を罪行為だと思い込んでいる。
“自殺をしたら地獄に落ちる”
“自殺をしたら末代まで祟る”
・・・・・・・・・・・・・
といった具合に、死後の話に及ぶ一種の脅しが潜んでいます。
つまり、自殺をさせたくない意図が窺われる。
では、脅しの張本人は一体誰なのでしょうか?
神の脅しなのでしょうか?
神の名の下の人間の脅しではあることは明白です。
他の生き物と同じように自然に溶け込んで生きていた人類の自然崇拝の信仰が、擬人化された神の概念によって宗教に変身したのは、人間社会だけが支配・被支配二層構造になったからです。
支配者が被支配者を支配する手段として神の名の下の宗教を捏造したのです。
被支配者である奴隷を酷使することで利を得ていた支配者たちにとって、奴隷は大事な生産手段であったわけで、その生産手段に自殺されたら元も子もなくなる。
ところが、酷使される一生を送る奴隷にとっては、生は苦の何者でもないわけであり、死だけがその解放手段であることを本能的に知っていたわけです。
それを防ぐ手段が宗教であり、人間を超えた存在としての神の概念を捏造し、神の名の下に自殺を禁じたわけです。
後代、奴隷側、つまり、被支配者側に救世主待望論の宗教が誕生したのも、基を正せば支配者側の論理に立った宗教がはじめにあったからに他なりません。
低劣な動機が、人類の長い歴史の中でわたしたち人間の潜在意識に深く入り込み、死をタブー視し、自殺を罪行為だと思い込ませてきたのです。
まさに自縄自縛のトラウマに他なりません。
このトラウマが差別・不条理・戦争を引き起こす元凶なのです。
人間社会だけが、支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会である所以です。
死をタブー視してきた人生。
自殺を罪悪視してきた人生。
この二つの罪意識は根が最も深い。
死の概念を持たないのが人間以外の生き物です。
“生も死もない”とする生き方であります。
死は生に対立する要因だとするのがわたしたち人間の考え方です。
“生が好くて死が悪い”とする、好いとこ取りの生き方であります。
生と死は一枚のコインの裏表関係、つまり、補完関係にあることに気づくのが、わたしたち人間の進むべき次のステップです。
“生と死は同じで、死が本質であり、生は死の不在概念に過ぎない”とする生き方であります。
更に、“生と死を超える”、つまり、生死を一枚のコインとしか捉えず、表面の生や裏面の死を意識しないのが次のステップの生き方であります。
そうしますと、生の実体と死の本質が見えてきて、死と自殺は実は一枚のコインに他ならなかったことに気づきます。
死とは自殺以外に無いのです。
どんな生き物でも自分が死ぬ時は、独りでひっそりと死んでゆく。
死とは自殺以外に無いのです。
“生も死もない”生き方の他の生き物にとっての死とは自然死しかない。
“生と死は同じで、死が本質であり、生は死の不在概念に過ぎない”を理解し、更に、“生と死を超える”者にとっての死とは自殺以外に無いのです。
他の生き物の世界は、自然と一体感の世界であります。
ただ死ぬだけの自己完結の自然死を体で知っている死の観念があるだけです。
わたしたち人間の世界は、自然の部分観の世界であります。
未だ来ぬ未来にある死を知る、つまり、“いつか自分も必ず死ぬ”という自己矛盾の死の概念が生まれた世界です。
生と死を超えた世界は、自然の部分観を経験した上で、自然との一体感を取り戻した全体観の世界であります。
“生も死もない”という一体感から、“生が好くて死が悪い”好いとこ取りの部分観を経験して、“生と死は同じで、死が本質であり、生は死の不在概念に過ぎない”ということを理解した部分観を経験して、“生と死を超える”という全体観に辿り着くのが、わたしたち人間の全体使命であり、部分使命でもあります。
一体感→部分観→全体観。
一体感は、「在り方」一如の死の知らない世界感。
つまり、死期のわかった自然死の自殺の世界です。
部分観は、「在り方」と「考え方」の死を知った世界観。
つまり、病死や事故死といった突然死の他殺の世界です。
全体観は、「在り方」も「考え方」も超えた死を超えた世界観。
つまり、自分の命は自分で絶つ、死期を自分で決定する完全自殺の世界です。
知性の目差すべき世界観とは、使命を知る世界観に他なりません。
使命とは、部分観と全体観が合致したときにその姿をはじめて現わすわけです。
一体感では使命はありません。
使命観であって、使命感ではないのです。
知性の知性たる所以は全体観にあって、部分観である間は使命の姿は観えません。
言い換えれば、成熟した自我意識(エゴ)こそが使命観に他ならない。
“自分が・・・”という自我意識(エゴ)こそが諸悪の根源であり、自他の区分けから生じる差別・不条理・戦争も結局の処は自我意識(エゴ)の為せる業であり、支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別制度も自我意識(エゴ)の為せる業であることは確かでありますが、死の概念を一度知った(持った)わたしたち人間が、自我意識(エゴ)を消滅させよと言われてもこれも土台無理な話であります。
『今、ここ』を生き切れと言われてもなかなかできないわけです。
何故なら、『今』という時間軸と『ここ』という空間軸は交差していないからです。
空間という三次元世界の上に時間という四次元要因が君臨するという、アインシュタインの相対性理論は明らかに間違っているのです。
若しそうなら、わたしたち人間はみんな『今、ここ』を生き切ることができ、悟りを開くことができる筈です。
『今』という時間軸と『ここ』という空間軸は交差していないから、『今、ここ』を生き切ることができないのです。
『今、ここ』を生き切っている他の生き物には時間の概念がありません。
結局の処、
死の概念とは、時間の概念に他ならない。
死=時間と言い切ってもいいかもしれません。
『今』と『ここ』の関係が究極の問題であると言い切ってもいいかもしれません。
“位置と運動量は同時に確定できない”、つまり、“動いているものの位置は決定できないし、止まっているものの速度は決定できない”と言う、ハイゼンベルグの不確定性原理が言い当てているのかもしれません。
使命を知るとは悟りを開くことであり、生きている(動いている)限り、悟りは程度(速度=運動量)の問題であって、ゴール(位置)の問題ではないのです。
そのためには、成熟した自我意識(エゴ)を目差すことしかないのです。
自我意識(エゴ)が、『今、ここ』にいることを邪魔して、過去・現在・未来という時間に想いを馳せさせる。
四苦八苦の元凶であると仏教が云う煩悩とは、過去・現在・未来という時間に想いを馳せることに他なりません。
つまり、時間に振り回されているわけです。
つまり、死に振り回されているわけです。
ところが、人間の知性たる所以は、時間の概念=死の概念を持ったことにあるのですから、今更、煩悩を断てと云われてもどうしようもありません。
自我意識(エゴ)を更に一歩前へ進めて、成熟した自我意識(エゴ)へ成長させるしか道はない。
生きている(動いている)限り、悟りとは程度(速度=運動量)の問題であって、ゴール(位置)の問題ではない。
『今』と『ここ』の問題は、水平(実時間)世界と垂直(虚時間)世界の問題であると言い換えてもいいでしょう。
水平(実時間)世界は量的であるのに対して、垂直(虚時間)世界は質的であります。
質的問題と量的問題を同じ世界観の中で考えているのが、錯覚の人生を送る原因の一つなのです。
拙著「夢の中の眠り」Chapter838[『今、ここ』と『今ここ』]を以下紹介いたします。

Chapter838 『今、ここ』と『今ここ』

量的尺度で計るのが相対性理論であります。
質的尺度で計るのが絶対性理論であります。
三次元(空間)世界の上に四次元(時空間)世界を置いたのが相対性理論であります。
三次元(量)世界の上に四次元(質*量)世界を置いたのが絶対性理論であります。
相対性理論とは運動理論であるのに対し、絶対性理論は静止理論である。
運動理論は運動する世界、つまり、誕生・生・死の生(円周)だけに通用する理論であるのに対し、静止理論は静止・運動の繰り返し動作、つまり、誕生(始点)・生(円周)・死(終点)すべてに通用する理論である。
アインシュタインは当初、相対性理論の構築において、宇宙を静止モデルとして考えていたが、運動モデル、つまり、膨張と収縮モデルに置き換えざるを得なくなったのは、相対性理論そのものが運動理論であったからです。
相対性理論の有名な方程式があります。
E=mC2
Gij=(8πG/C4)Tij
光の速度(C)を一定(Constant)、つまり、光を絶対者とした方程式は運動理論であって、静止(静止・運動)理論ではなかったのです。
ハイゼンベルグが発表した不確定性原理をアインシュタインが徹底的に排除しようとしたのは、相対性理論に真っ向から反対した理論であったからでしょう。
“動いているものの位置を確定することはできないし、静止しているものの運動量(速度)を確定することもできない”
ハイゼンベルグの不確定性原理の骨子でありますが、一般のわたしたちでも至極当たり前のことのように思います。
時間軸(運動軸)と静止軸(空間軸)は交差し得ないという意味であり、三次元空間軸の上に四次元時間軸を置くことはできないという意味でもあり、三次元空間の上に四次元時空間を置いた相対性理論を否定した理論であったからです。
敢えて理論的に述べると、過去・現在・未来という時間を、『今、ここ』の『ここ』という三次元空間の上に置いたため、わたしたちは過去・未来に思いを馳せる生き方になってしまったと言えるのです。
『今』という時間軸と『ここ』という空間軸が交差していないから、『今、ここ』であるのです。
『今』という時間軸と『ここ』という空間軸が交差しているなら、『今ここ』であります。
相対性理論は好いとこ取りの相対的一元論ですから『今ここ』であり、『今ここ』とは過去・現在・未来という時間に外なりません。
過去・未来という時間の物差しの目盛りは1秒・1分・1時間・1日・1ヶ月・1年ではなく、1秒前・1秒後、1分前・1分後、1時間前・1時間後、1日前・1日後、1ヶ月前・1ヶ月後、1年前・1年後のことであり、前と後が限りなく近づいた状態つまり極限値が現在でありますから、過去・現在・未来という時間は、前後の長短の尺度、つまり長い・短いという量的尺度の水平的時間、畢竟、『今ここ』という過去と未来が現在に収斂した極限値であります。
前後がない一息・一秒・一分・一時間・一日・一ヶ月・一年・一生こそが、『今、ここ』という水平時間軸(空間軸)と交差しない垂直時間軸との仮想交点であるのです。
わたしたちが時間と思ってきた(連想してきた)時間は、時間ではなく空間であったわけで、本当の時間とは、『今、ここ』の『今』であり、過去・現在・未来ではなかったのです。
記憶を時間と勘違いしているのは、まさしく、『今、ここ』の『今』を時間とせずに、過去・現在・未来を時間とした結果であります。
記憶の正体は空間(光景)であるように、過去・現在・未来の正体は時間ではなく空間(光景)であったのです。
連想によって生まれた過去・現在・未来という空間を時間と勘違いして、自分つまり実際の空間の上に君臨させた為に、悩まされる羽目に陥ったのが人間であります。
記憶は時間ではなく空間(光景)であることに気づくことで、過去・現在・未来も時間ではなく空間であることに気づくことが次のステップであります。

どうもわたしたちは、過去・現在・未来という空間を時間と勘違いしてきたようです。
拙著「夢の中の眠り」では、人生を、映画を上映する劇場に喩えています。
その劇場には3階から5階までの鑑賞席がある。
3階は普段目が覚めている状態を象徴している。
5階は普段眠っている状態を象徴している。
毎日3階と5階を往復して、舞台の奥にある白いスクリーンに映っている映画を観ているのが人生ですが、3階と5階からは舞台の奥にある白いスクリーン、つまり、背景画面しか観えず、手前にある実舞台は観えない。
実舞台と背景画面の両方は、4階の鑑賞席からでないと観ることができないのに、わたしたちは3階と5階を往復するだけで、4階を素通りしてしまっている。
3階と5階を往復して鑑賞席から映画を観ているのが、複数いる偽者の自分である「私」、つまり、自我意識(エゴ)である。
3階から観る背景画面に映っている映画が所謂現実だ。
5階から観る背景画面に映っている映画が所謂夢だ。
目が覚めている時に観る所謂現実も、眠っている時に観る所謂夢も実は同じで、座っている自分の席が違うだけだ。
一方、実舞台で演じられている芝居を観ることができる4階の鑑賞席に座っているのが、唯一本当の自分である「わたし」、つまり、成熟した自我意識(エゴ)である。
4階の世界に気づいていないわたしたちは、毎日4階を素通りして3階と5階を往復して夢を観続けている。
それが、知性を得た人間の一生である。
拙著「(静止)宇宙論」第三部[絶対進化論]第四十九章[超絶対・相対性理論の世界」を以下紹介いたします。

「(静止)宇宙論」第三部[絶対進化論]第四十九章[超絶対・相対性理論の世界]

我々は時間という汽車に乗って人生という錯覚の旅をしている。
窓外には空間という景色が動いて観えるが、空間という景色は静止している。
時間という汽車が動いているから、空間という景色が恰も動いているように観えるだけだ。
舞台に掛かっている白いスクリーンに映っている映像(映画)が、窓外の景色である。
映写室にある静止画フィルムが実体(実在)であり、映画(動画)の正体に外ならない。
時間という汽車に乗っている自分が、鑑賞席で映画を鑑賞している本当の自分だ。
時間の『今』から、空間の『ここ』の連続体である過去・現在・未来を窓外に観ているのである。
運動宇宙とは時間から見た空間の世界のことだ。
映像宇宙とは時間から見た空間の世界のことだ。
相対宇宙とは時間から見た空間の世界のことだ。
静止宇宙とは空間の世界のことだ。
実在宇宙とは空間の世界のことだ。
絶対宇宙とは空間の世界のことだ。
超静止・運動宇宙とは汽車の中の自分独りだけの世界だ。
超実在・映像宇宙とは汽車の中の自分独りだけの世界だ。
超絶対・相対宇宙とは汽車の中の自分独りだけの世界だ。
死とは映写機が止まって(静止して)、映画が終わることだ。
鑑賞席に座っている本当の自分に死などない。
死んでいった者も、生きている者もみんな鑑賞席にずっと座っているのだ。
『今、ここ』を生きるとは、劇場の3階(現実の世界)と5階(眠りの中の世界)を日々往復しているニセモノの自分から、4階(映像世界であり、運動世界であり、相対世界という背景画面(スクリーン)と、実在世界であり、静止世界であり、絶対世界という実舞台の両方が見える超実在・映像世界であり、超静止・運動世界であり、超絶対・相対世界)の鑑賞席に座ることである。
死とは時間という汽車が駅に停車して(静止して)窓外の空間という景色が動画面から静止画面になることだ。
つまり、
死とは人生という錯覚の旅をしている時間という汽車から下車することに外ならない。
時間という汽車を下車した自分に死などない
『今、ここ』を生きるとは、窓のカーテンを閉じて、動いている時間という汽車の中で静止することだ。
結局の処、
超実在・映像宇宙であり、超静止・運動宇宙であり、超絶対・相対宇宙であり、『超静止・運動の超光・暗闇と超音・沈黙の宇宙』の超無限・有限宇宙である3(n)=3nの「超宇宙」の世界では生も死もないのであり、生も死もない世界こそ超絶対・相対性理論の世界に外ならない。

つまり、知性を得たわたしたち人間は、所謂現実も所謂夢も超えてゆかなければならない、つまり、眠りを超えた人生を送ることが使命に生きることに他ならないのであります。
「般若心経」の最後を締め括る言葉“羯諦(ぎゃーてい)”とは、眠りを“超えよ!”と示唆しているのであります。
わたしたちは、『今』という時間軸の汽車に乗って人生という錯覚の旅をしている。
窓外には、本来静止している『ここ』という空間軸の景色が動いているように観える。
錯覚とは、自分が動いていて景色が止まっているのに、恰も自分が止まっていて景色が動いているように観えることに他ならない。
この錯覚に気づき、人類に警鐘を鳴らした最初の人間がコペルニクスです。
自分たちが乗っている地球号という汽車が止まっていて窓外の景色である天が動いていると想い込んでいた当時の人間は、自分たちが乗っている汽車が実は動いていて窓外の景色が止まっていると主張したコペルニクスを気狂い扱いしたのです。
ところがおよそ500年経った現在では、コペルニクスの主張を気狂い扱いする人間は一人もいない筈なのに、依然500年前の人間と同じように、自分が動いていて景色が止まっているのに、恰も自分が止まっていて景色が動いていると錯覚しているのです。
『今』という時間軸の汽車に乗って、『ここ』という空間軸の景色を観ている。
まさに時間軸と空間軸は交差していない証左であり、アインシュタインの相対性理論とハイゼンベルグの不確定性原理では、ハイゼンベルグに軍配が上がるのです。
死ぬとは、『今』という時間軸の汽車から『ここ』という空間軸の景色(駅)に下車することに他なりません。
その時はじめて、自分(汽車)が止まっていて景色が動いていると想い込んできたことが錯覚で、実は自分(汽車)が動いていて景色は止まっていたことに気づくのです。
だから下車する、つまり、死ぬことができるのです。
死ぬことが怖いのは、自分(汽車)が止まっていて景色が動いていると錯覚していたからで、景色が止まっているなら下車(死)は怖くない筈です。
死を怖いと想い込んできたことは錯覚だったのです。
その錯覚から解放されるには、『今、ここ』の正体を理解することです。
わたしたちが死を怖れる原因の一つは、死には明日がない点です。
“死んだら、愛する人と会うことも、話をすることも二度と出来なくなる、つまり、明日の人生がなくなる。それが死だから恐ろしい!”
しかし、生きていても明日など無いのです。
あるのは『今、ここ』だけです。
厳密に言えば、『ここ』だけです。
明日などない。
時間を究極に収斂してみるとすぐにわかる筈です。
一年、一日、一時間、一分、一秒、十分の一秒、百分の一秒、・・・・、百万分の一秒、・・・。
結局の処、
他者など何処にもいない。
『ここ』にいるのは自分独りだけです。
『ここ』にいる自分独りだけの『今』は、時間の収斂の極限値である『ゼロ時間』であって、百万分の一秒でもありません。
過去・現在・未来の現在とは、・・・百万分の一秒・・・ですが、『今』とは『ゼロ時間』、つまり、時間ではないのです。
時間とは流れる、つまり、運動することに他ならない。
『今』とは静止している状態に他ならない。
だから、死の概念=時間の概念に他ならないのです。
死の概念を持つわたしたち人間が、先伸ばしの人生を送っている証左であるとも言えます。
死の概念を持つわたしたち人間が、過去・現在・未来に想いを馳せて生きている証左でもあります。
死の概念を持つわたしたち人間が、自我意識(エゴ)を自分だと想い込んでいる証左でもあります。
『今、ここ』には明日などありません。
死とは、『今、ここ』に生きることに他なりません。
『今、ここ』を生きずに、空間である過去・現在・未来(昨日・今日・明日)に「想い」を馳せているから、支配・被支配二層構造の世襲・相続制度に執着し、差別・不条理・戦争を繰り返すのです。