(その四)二十一世紀のイデオロギー

自然社会は清貧絶対一元の世界で、二元論的なものは一切ありません。
生も死もなく、あるのは清貧な生き方だけです。
オスもメスもなく、あるのは清貧な生き方だけです。
善も悪もなく、あるのは清貧な生き方だけです。
強も弱もなく、あるのは清貧な生き方だけです。
賢も愚もなく、あるのは清貧な生き方だけです。
富も貧もなく、あるのは清貧な生き方だけです。
幸福も不幸もなく、あるのは清貧な生き方だけです。
天国も地獄もなく、あるのは清貧な生き方だけです。
健康も病気もなく、あるのは清貧な生き方だけです。
神も悪魔もなく、あるのは清貧な生き方だけです。
支配も被支配もなく、あるのは清貧な生き方だけです。
清貧な生き方は絶対一元的な生き方です。
清貧とは、清く貧しくという意味ではなく、自然と一体感(全体感)、つまり、自然を全面信頼して生きる様を言うのです。
清貧とは、昨日の糧を持ち越すこともなく、明日の糧を心配することもなく、『今、ここ』を生きることに他なりません。
朝になったら起きるのではなく、昼になったら昼食を採るのではなく、夜になったらセックスをするのではなく、眠たくなったら寝るだけであり、空腹になったら食べるだけであり、春になったら交尾をし、冬になったら死ぬだけのことであり、それが清貧に生きることの極意であります。
それぞれ固有の人生があるように、それぞれ固有の朝・昼・夜・春・夏・秋・冬という四季(死期)がある。
清貧な生き方をすれば、それぞれ固有の朝・昼・夜・春・夏・秋・冬という四季(死期)がわかってくるのです。
自然社会は清貧絶対一元の世界で二元論的なものは一切ないのに対して、人間社会はすべてが二元論の世界で生きています。
二元論的に生きると、
生が好くて死が悪いとする好いとこ取りの生き方、つまり、貪欲な生き方をし、清貧な生き方ができなくなります。
オスが好くてメスが悪いとする好いとこ取りの生き方、つまり、貪欲な生き方をし、清貧な生き方ができなくなります。
善が好くて悪が悪いとする好いとこ取りの生き方、つまり、貪欲な生き方をし、清貧な生き方ができなくなります。
強が好くて弱が悪いとする好いとこ取りの生き方、つまり、貪欲な生き方をし、清貧な生き方ができなくなります。
賢が好くて愚が悪いとする好いとこ取りの生き方、つまり、貪欲な生き方をし、清貧な生き方ができなくなります。
富が好くて貧が悪いとする好いとこ取りの生き方、つまり、貪欲な生き方をし、清貧な生き方ができなくなります。
幸福が好くて不幸が悪いとする好いとこ取りの生き方、つまり、貪欲な生き方をし、清貧な生き方ができなくなります。
天国が好くて地獄が悪いとする好いとこ取りの生き方、つまり、貪欲な生き方をし、清貧な生き方ができなくなります。
健康が好くて病気が悪いとする好いとこ取りの生き方、つまり、貪欲な生き方をし、清貧な生き方ができなくなります。
神が好くて悪魔が悪いとする好いとこ取りの生き方、つまり、貪欲な生き方をし、清貧な生き方ができなくなります。
支配が好くて被支配が悪いとする好いとこ取りの生き方、つまり、貪欲な生き方をし、清貧な生き方ができなくなります。
貪欲とは、自己中心の部分観、つまり、自然との一体感(全体感)がなく、自然を全面信頼せずに生きる様を言うのです。
貪欲とは、昨日の糧を持ち越し、明日の糧を心配し、過去・現在・未来に「想い」を馳せて生きることに他なりません。
朝になったら起き、昼になったら昼食を採り、夜になったらセックスをし、挙句の果てに、悪夢に苛まれる眠りをして、翌日に四苦八苦を持ち越す結果、死の恐怖に苛まれる、それが貪欲に生きる人生であります。
貪欲な生き方をすれば、それぞれ固有の朝・昼・夜・春・夏・秋・冬という四季(死期)は一生わからず、突然の死に襲われて真の地獄に落ちるのです。
清貧の自然社会で生きているものはすべて、それぞれ固有の朝・昼・夜・春・夏・秋・冬という四季(死期)がわかる自己完結の真の天国の一生を全うするのに対して、貪欲の人間社会で生きているものはすべて、それぞれ固有の朝・昼・夜・春・夏・秋・冬という四季(死期)が一生わからず、突然の死に襲われる真の地獄を味わう。
自然社会は一見弱肉強食の修羅世界のように見えますが、実はバランスの取れたユートピアの世界なのであります。
人間社会は一見利便性のよい天国世界のように見えますが、実はバランスの取れていない修羅の世界なのであります。
人間社会だけに差別・不条理・戦争があるのがその証左です。
自然社会には差別・不条理・戦争は一切ありません。
結局の処、差別・不条理・戦争の原因は、バランスの取れていない社会にあるのです。
バランスの取れている社会とは、自然の食物連鎖の法則が厳然と機能している社会のことであり、ある種だけが異常発生するようなことは決してない社会のことであります。
バランスの取れていない社会とは、自然の食物連鎖の法則が崩れた社会のことであり、ある種が突然異常発生する社会のことであります。
人類の数、つまり、人口が異常発生しだしたのは、16世紀の近代社会以来であり、特に二十世紀に入ってからその兆候は顕著になった。
紀元0年におよそ3億だった人口が、紀元1500年には4.3億にしかなっていないのですから、人類という種は実質殆ど変化していない。
つまり、古代の奴隷社会、中世の荘園制度に基づく人間社会の歴史は、近代の民主主義制度に比して差別・不条理・戦争が酷い時代であったかのように伝えられているが、それは自然社会の食物連鎖の法則に基づいたものであったわけで、それよりも近代の民主主義制度の方が食物連鎖の法則を崩す、地球レベルで言えば、バランスの取れていない社会と言えるのであって、だから、人口が異常発生したわけです。
バランスの取れた社会とは、地球とのバランスが取れた社会のことに他ならず、バランスの取れていない社会とは、地球とのバランスが取れていない社会に他ならないのです。
古代の奴隷社会、中世の荘園制度に基づく人間社会の歴史は、近代の民主主義制度に比して差別・不条理・戦争が酷い時代であったかのように伝えられているが、それは自然社会の食物連鎖の法則に基づいたものであったわけで、それよりも近代の民主主義制度の方が食物連鎖の法則を崩す、地球レベルで言えば、バランスの取れていない社会と言えるのであって、だから、人口が異常発生した。
竹山道雄氏の「剣と十字架」によると、1480年から1941年までの約450年の間に、各国の戦争の回数は、イギリスが78回、フランスが71回、ドイツが23回、そして日本が9回であり、第二次世界大戦が始まった1941年から現代に至るまでのおよそ60年間で、アメリカが戦争をしていなかった平和な時期が10年以上続いたことは殆どなかった。
太平洋戦争が1941年から1945年。
朝鮮戦争が1950年から1953年。
ベトナム戦争が1963年から1973年。
アフガン戦争が1979年から1988年。
湾岸戦争が1990年から1991年。
イラク戦争が2003年から継続中。
近代社会とは、ルネッサンス、宗教革命、そして産業革命によって、それまでの古代の奴隷社会、中世の荘園制度社会を打破し、自由主義、そして民主主義、更に社会・共産主義を生みだした社会のことであります。
ところが、差別・不条理・戦争はますます助長したことを、上記の数字は示している。
わたしたち近代人は、自由、民主、社会・共産主義が一般大衆を解放してくれるイデオロギーだと信じてきたが、結果は逆のますます差別・不条理・戦争の横行する社会の考え方に他ならなかったのであります。
真の平和を望むなら、二十一世紀の新しいイデオロギー(考え方)が必要なのであります。