(その二)本物の人生

人間社会が自然社会を支配しようと科学を駆使する、この傲慢さが人間だけに悩みや苦をもたらし、挙句の果てに、死の恐怖の中で生きる羽目に陥らせているのです。
自然社会では、すべてが渾然一体と成って存在している、つまり、地球という唯一の親に包まれた全体感で生きています。
人間社会では、人間だけが独立体と考えている、つまり、自己を中心とした考え方の部分観で生きています。
地球と自己が一体とする全体感では自己意識などありません。
地球と自己が別々とする部分観だから自己意識が生じるのです。
ではなぜ人間という生き物だけに部分観という自己意識が生じたのでしょうか。
“地球という星になぜ生命体が存在するのか”という問題と関係があるのです。
生き物の誕生と進化を検証すると、水の存在、つまり、海の存在と深く関わっていることがわかります。
海(水)があったから、生命体が誕生した。
ではなぜ地球に海が誕生したのでしょうか。
地球の重力が海の存在を可能にしたのです。
重力とは星の重さと関わっていて、地球が海を存在させるのに適した重さであったからで、地球がもう少し重かったら、海は地球に吸い込まれて消滅してしまい、地球がもう少し軽かったら、海は蒸発してやはり消滅していたのです。
地球の微妙な重力が海の存在を可能にし、海の存在が生命体の存在を可能にした、つまり、地球上に存在する生命体を維持する生命力とは地球の重力に他ならないのです。
地球と一体感の生き物は、地球の微妙な重力と均衡が保たれているのに対して、地球と一体感になれない部分観の人間は、地球の微妙な重力と均衡が保たれていない結果であります。
ではなぜ人間だけが地球の微妙な重力と均衡が保たれていないのか。
四本足生き方から二本足生き方に変わったからです。
人間の体格で四本足なら、頭の位置はせいぜい地上50cmの辺りですが、二本足なら地上1m50cmになり、地球の微妙な重力の影響に変化を来たします。
この変化こそが、人間と地球の微妙な重力との均衡を破らせた原因であり、全体感から部分観に至らせた原因であり、自己意識を誕生させた原因であるのです。
一方、頭の位置の変化は、地球の微妙な重力の変化によって脳の構造の変化をもたらし、大脳新皮質を発達させ、その結果、人間だけに知性を与えたのでもあります。
わたしたち人間は、知性によって進化していると思い込んでいるが、功罪両面があることに気づかなければならない。
知性の誕生・発達は四本足から二本足への変化によってもたらされたわけですが、二本足・二本手の手は明らかに四本足の退化現象としか思われない。
運動能力において四本足の方が二本足より優れている点がそのことを証明しています。
そうしますと、二本足の生き方によってもたらされた知性とは退化現象とも言えます。
知性が科学をもたらし、科学が地球を支配しようとすることは、ますます地球の微妙な重力との均衡が保たれなくなる。
知性の誕生とは、地球レベルの全体感では退化現象であり、自己意識を持った部分観では進化現象に過ぎない。
人間だけにある悩みや苦、そして死の恐怖は、部分観、つまり、分裂症の為せる業であることを自覚すべきであります。
四本足動物から二本足動物への進化は脳の進化を促したが、二本手という退化も促したという功罪両面があります。
二本手という罪的側面は手の効用という功的側面を有するように、知性の進化という功的側面は地球の微妙な重力との均衡をますます保てなくなるという罪的側面があります。
生命力の正体である地球の微妙な重力との均衡が保てなくなると、唯一の親である地球との一体感がなくなり、自分という意識の部分観がますます頭をもたげてくる。
人間だけにある悩みや苦、そして、死の恐怖は、知性の罪的側面である退化現象に他なりません。
死の本質は、宇宙を貫く円回帰運動(誕生・生・死)の一貫性にあり、円回帰運動(誕生・生・死)の一貫性とは相転移現象に他ならない。
相転移現象とは「(静止)宇宙論」で述べましたように、平たく言えば、水の状態が、摂氏100度以上では水蒸気という気体、摂氏100度と0度の間では水という液体、摂氏0度以下では氷という固体に変化することを言います。
従って、円回帰運動(誕生・生・死)の一貫性とは相転移現象に他ならないとは、摂氏100度で水蒸気という気体から水という液体に変化することを誕生と言い、摂氏100度と0度の間の水という液体の状態維持が生であり、摂氏0度で水という液体から氷という固体に変化することが死に他ならないということなのです。
水蒸気という気体状態でも、水という液体状態でも、氷という固体状態でも、水つまりHO という分子化合物には何ら変わりはない。
わたしたちの体も水と同じ分子化合物の一形態であり、たとえ死んでも無機体の構成要素に変化はない。
ただ有機生命体という構造が消滅するだけのことです。
国家・社会・会社・家庭といった組織が有機体であり、組織の構成要員であるひとりひとりの人間が無機体であり、組織という有機体が消滅しても、構成要員の無機体は永遠に消滅しません。
つまり、死とは、組織、つまり、有機体の消滅に他ならない。
組織という有機体が自己意識という部分観の正体ですから、死とは自己意識の消滅に過ぎず、実在である無機体には何ら関わりがないのです。
わたしたち人間は、そんな幻想(映像)に惑わされ、悩みや苦、そして、死の恐怖に怯えて生きているのです。
生みの親を親と思い込むことは、有機体という映像の世界を現実と思い込むことに他ならず、地球を親と自覚することは、無機体という実在に自覚することに他ならない。
有機体と無機体。
死の正体はここにあります。
死とは有機体の死に他ならない。
無機体には死はない。
有機のことを英語では(organic)と言います。
無機のことを英語では(inorganic)と言います。
組織のことを英語では(organization)と言います。
つまり、有機(organic)とは組織(organization)のことを言い、無機(inorganic)とは組織(organization)の反義語のことを言うのです。
組織(organization)というのは実体がありません。
国家・社会・会社・家庭といったものが組織(organization)ですが、単なる概念であって、実体はない。
従って、実体のない組織(organization)の反義語である無機(inorganic)が実体がある。
実体のあるものに死はない。
実体のないものに死がある。
わたしたち人間は実体のないものだけにある死を怯えて生きているのです。
産みの親を二人の父母とする考え方が、人間社会だけに支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別制度を生み、差別・不条理・戦争の横行する社会をつくり、挙句の果てに、真の親である地球にまで宣戦布告する傲慢極まりない生き物に成り果ててしまった。
科学を生んだ知力はさしずめ地球と戦争をする武器と言えるでしょう。
嘗ては地球上の極めて弱き生き物だった人類が、弱いゆえに二本足になったことが、功罪両面を生む結果となったのです。
知力という武器が人類を地上最強にまで押し上げた功的側面の一方で、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれるという罪的側面をも有する生き物になったのです。
知性と苦悩が表裏一体の関係にあることを人類は見逃し続けてきた。
2400年も前に釈迦が開いた仏教では、煩悩、つまり、欲望が苦悩の原因だと喝破し、ちょうど同じ頃の古代ギリシャではソクラテスやプラトンが、人間は錯覚の生き物だと、やはり喝破しているのにも拘わらず、現代に至るまで、わたしたち人間は依然として悩みや苦、そして、死の恐怖から解放されるどころか、差別・不条理・戦争がますます横行する社会にしてしまっているのは何故でしょうか。
知性と苦悩が表裏一体の関係にあることを人類が見逃し続けてきたからに他なりません。
釈迦にしても、ソクラテスやプラトンにしても、所詮は、知性で知っただけに過ぎず、知性そのものが元凶であることに気づいていなかったのではないでしょうか。
ではそのことに気づいていた人間はいなかったのかと言うと、そうではありません。
中国の老子や、ギリシャのディオゲネスは気づいていたように思われます。
だから、彼らは表舞台には決して出ず、独りでひっそりと暮らす生き方を選んだのです。
真の人生は独りだけの世界であって、他人の存在が介入するいわゆる人生は映像に過ぎない。
もっと厳密に言えば、いわゆる人生という芝居は、いわゆる夢という背景と、いわゆる現実という実舞台で構成された芝居の舞台(映像)に過ぎず、他人の介在はすべて芝居の舞台(映像)の中での出来事であり、芝居の舞台(映像)のある劇場の席で鑑賞している独りの自分だけの世界が真の人生であるということに気づくことです。
そのことに気づけば、老子やディオゲネスのように独りでひっそりと暮らす生き方が最上であることがわかる筈です。
いくら釈迦が口酸っぱく知性で教えても、仏教という宗教になったら最後、もう無意味です。
いくらソクラテスやプラトンが思い込み(ドクサ)だと教えても、哲学になったら最後、もう無意味です。
独りでひっそりと暮らす生き方をするしかない。
考えてみれば当たり前のことですが、独りで生まれて来て、独りで死んで逝くのが人生の始まりと終わりなのですから、夢の途中も独りで生きてゆくしかないのです。
本物の人生の鍵はそこにあるのです。