(その十)懲りない人間

差別・不条理・戦争が横行する人間社会は、文明がいくら発達してもまったく変わっていません。
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会が続く限り、差別・不条理・戦争が途絶えることはない。
文明とは一体何であったのでしょうか。
極論すれば支配方法の進化が文明の進化であり、人類の歴史とは支配方法の進化過程の検証であったと言っても過言ではない。
古代においての文明は信仰(小乗的)でありました。
中世においての文明は宗教(大乗的)でありました。
近代とは信仰・宗教からの脱却に外ならなかったのですが、その役割を負った科学も所詮は支配の一進化過程に過ぎなかった。
ルネッサンス・産業革命の根底にあった宗教革命とは、信仰・宗教という支配方法から科学という支配方法への革命であったわけですが、支配方法の進化過程という点においては何ら変わっていなかったのです。
キリスト教圏世界とイスラム教圏世界が争っているのを、「文明の衝突」と呼んでいるのは、文明こそが宗教であることを証明しています。
キリスト教圏世界の文明が近代科学であり、イスラム教圏世界の文明が宗教にあるだけのことで、支配方法の違いに過ぎないわけで、つまり支配者側の論理だけであり、被支配者側にとっては、科学であろうが宗教であろうが、支配される方法が違うだけのことであります。
宗教による支配方法が奴隷制であるのに対し、科学による支配方法が民主主義であるだけのことです。
宗教による支配方法の根底にある奴隷制がイスラム教圏世界のイメージを悪くしていて、民主主義という支配方法が科学的であるゆえに、キリスト教圏世界のイメージが好いだけのことであって、文明が先進的か後進的かの違いは、支配方法が科学的か宗教的かの違いに過ぎません。
“テロ撲滅運動”
アメリカが中心になった先進国世界のスローガンであり、テロ活動を展開する後進国世界のイスラム教圏世界を非難していますが、所詮は、支配方法の違い、つまりイデオロギーの対決に過ぎないことを、被支配者側であるわたしたち一般民衆(国民)は認識しなければならない。
戒めを説くイスラム教は性悪説。
愛を説くキリスト教は性善説。
一見対立するようですが、これも二元論であって、性善説と性悪説は表裏一体の相対関係にあるのです。
表面が性善説、裏面が性悪説という一枚の支配方法というコインに過ぎない。
性善説は宗教革命以後科学を打ち出したのに対し、性悪説は依然宗教色を強く打ち出しているに過ぎない。
科学を打ち出した性善説は偽善的になり、宗教を打ち出した性悪説は偽悪的になっているのです。
キリスト教が偽善的であり、イスラム教が偽悪的である所以であり、文明の衝突とは、偽善と偽悪の衝突と言い換えてもいいわけです。
宗教とは本来偽悪的であったのです。
科学とは本来偽善的であったのです。
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会が人間社会だけのものであり、自然の法則にはない概念である点において、共に偽であることには変わりないのです。
偽モノ社会ゆえ差別・不条理・戦争が横行するのが人間社会でした。
差別・不条理・戦争のない人間社会を構築するには、本モノ社会にしなければなりません。
宗教にしても科学にしても、所詮は支配者側が被支配者側を如何に上手く支配するかの一方便に過ぎないのであり、支配者側の論理を本質的に内在しているのであります。
宗教の世界でも科学の世界でも、その組織がヒエラルキー(ピラミッド型)構造であるのがその証明であります。
教祖を頂点とする宗教組織は、教義を律法(法律)にして支配しようとする。
白い巨塔と呼ばれる科学の世界の組織は、論理(民主主義)を律法(法律)にして支配しようとする。
何れにしても支配方法の違いだけであって、支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会に変わりはない。
教祖を世襲しようとする宗教団体(特に新興宗教)が圧倒的に多いのは、支配・被支配二層構造と世襲・相続の概念が表裏一体である証左であります。
白い巨塔の世界でも、世襲・相続の概念が浸透してきている。
白い巨塔の世界の中で、世襲・相続の概念が浸透している典型的な世界が政治の世界であります。
白い巨塔の世界とは、学者や医者の世界だけではなく、偽善的な科学的手法(民主主義)による支配方法の一世界に過ぎないのであり、嘗ての聖職者の世界はすべて白い巨塔の世界になる危険性を有していたから、拝金主義思想の極致に達している先進社会で嘗ての聖職であった政治家・役人・医者・宗教者・教師・・・といった連中が成金になっているのです。
聖職という一枚のコインにも表裏があり、表面は清貧であり、裏面が成金であります。
古代・中世が直接的な手法の支配・被支配二層構造の社会であったのに対し、近代は民主主義という羊の皮を被った狼による間接的な手法の支配・被支配二層構造の社会だから、被支配者側であり続ける一般民衆(国民)は気がつかないでいるのです。
キリスト教圏世界による近代欧米社会と、イスラム教圏世界による中世アラブ社会の衝突だから文明の衝突と呼ばれているわけですが、所詮、支配方法(イデオロギー)の違いによる相克・軋轢に過ぎないのであり、根っこは同じであります。
民主主義思想は間接的支配手法であるゆえに実に巧妙なだけで、聖職の本質である清貧思想すらも成金思想に摩り替わってしまったのです。
科学の世界が白い巨塔に成り下がったのも、聖職者を成金者にしたのも、民主主義という一見被支配者側の論理のように見せかけた巧妙な支配手法であった証明であります。
古代・中世・近代は本質的には何も変わっていない支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会であったのです。
その結末が人口の大増殖という人類の大群発生であります。
人類の歴史も、宇宙の基本法則である円回帰運動に沿っていて、正に反転時期に差し掛かっているのです。
支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会から、平等・公正・共生の社会へ反転する時期に差し掛かっているのであり、男性社会から女性社会への反転時期に差し掛かっているのであります。
生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄・・・健康・病気、神・悪魔・・・という二元論世界において、死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄・・・病気・悪魔・・・の不在概念である生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国・・・健康・神を追い求める偽モノ社会から、実体である死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄・・・病気・悪魔・・・の本質を理解する本モノ社会への反転時期に差し掛かっているのであります。
現代社会は偽モノ社会の極みに達しています。
極みに達しているということは、反転時期に差し掛かっていることに外なりません。
夜明け前の真っ暗闇と言い換えてもいいでしょう。
円回帰運動は山あり谷ありの変化であり、現代社会はさしずめ谷底状態であります。
山あり谷ありの変化の周期は一円周と決まっていますが、個人個人の円回帰運動にも最長形態の一生から最短形態の一息があるように、人類の歴史においても最長形態から最短形態までがあり、円周の長さはそれぞれあるわけです。
半円が決まれば、円の大きさ(円周の長さ)は決まる。
従って、反転時期というのは極めて重要な時期であるわけです。
わたしたち人間の身体というのは7年周期で変化すると言われ、35才や42才の厄年も7年周期の一環であり、7年毎の節目が反転時期であることを示唆しているのであります。
二十一世紀が人類の歴史の反転時期とする最大の根拠は、二元論の極致現象、つまり、生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄という二元要因の(都合)好いとこ取りが極致に達した結果起こる格差現象であり、東西世界が消滅し、南北世界の格差が極致に達して、人類の大群発生現象が起こっている点であります。
貧困に喘ぐ南世界(後進国)では人口の爆発的増加が起こる一方で、成金・拝金主義に嵌った北世界(先進国)では高齢化・少子化現象が起こっているのが、人類の大群発生の二極現象に外ならないのであります。
末法思想は世紀末毎に発生しますが、人類の大群発生は歴史上はじめてのことであり、凡そ末法思想とは掛け離れた物理的現象であるのです。
歴史は是々非々つまり善悪の物差しで計りますが、善悪の物差しは強弱の物差しに外なりません。
歴史をつくるのは常に勝者(強者)であり、勝者(強者)は常に善者であり、善者は常に賢者であり、賢者は常に富める者であり、富める者は常に幸福な者であり、幸福な者は常に天国に行ける者であり続けてきた、男性(オス)社会の歴史でありました。
差別・不条理・戦争の社会であり続けてきたのです。
しかし、勝者(強者・善者・賢者・富者・幸福者・天国者・オス)であっても、敗者(弱者・悪者・愚者・貧者・不幸者・地獄者・メス)であっても死は公正に襲ってきます。
しかし、勝者(強者・善者・賢者・富者・幸福者・天国者・オス)であっても、敗者(弱者・悪者・愚者・貧者・不幸者・地獄者・メス)であっても病気は公正に襲ってきます。
真の二元論に則して言えば、歴史をつくるのは勝者(強者・善者・賢者・富者・幸福者・天国者・オス)でもなければ、敗者(弱者・悪者・愚者・貧者・不幸者・地獄者)でもない、宇宙の法則に則しているだけのことだと言えるのです。人類の大群発生が、偏った(都合)好いとこ取りの相対的一元論の歴史観に対して、反転時期に差し掛かっていることの警鐘を鳴らしているのであります。
わたしたち人間だけが、知性を得た(善悪の判断をする果実を食べた)故に、エデンの園から追放されたのは、まさしく、二元論の相対的世界での無知性から有知性への進化過程と言えるわけです。
わたしたち人間だけにある四苦八苦の人生は、進化する痛み、産みの苦しみであると言えます。
進化する苦しみ、産みの苦しみは可及的速やかに抜け切ることが肝要です。
進化する苦しみ、産みの苦しみに鈍感になっていますと、肝腎の目的である進化・産みに到達することができなくなります。
ところが、わたしたち人類は未だに二の足を踏んでいる。
善悪の判断の果実を食べた時点で、わたしたち人類は無知性(ゼロ)から有知性(一)の世界に足を踏み入れたのに、二の足を踏み込まずに、二の足を踏んでいる。
清水の舞台から飛び下りる勇気を奮えずにいるのは、わたしたちひとり一人の課題のみならず人類の最大の課題であると言っても過言ではありません。
生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄・・・健康・病気、神・悪魔・・・の生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国・・・健康・神・・・だけを好いことだと勘違いする好いとこ取りの相対的一元論から、生も死もない、オスもメスもない、善も悪もない、強も弱もない、賢も愚もない、貧も富もない、幸も不幸もない、天国も地獄もない・・・健康も病気もない、神も悪魔もない・・・有知性の絶対一元論つまり三元論の世界に可及的速やかにジャンプすることが人類最大の課題であります。
地上を制覇した恐竜が氷河時代の到来も相俟って絶滅したように、地上を制覇した新恐竜・人類が絶滅するか永続できるのか。
氷河期は1万数千年周期でやって来るフォトンベルト突入の時期に起こると言われており、今まさにわたしたちの地球はフォトンベルト突入を目の前にしているのは、何かを象徴しているのでしょうか。
人類の大群発生がその兆候なのでしょうか。
知性を得た人類は、どうやら勘違いの人生を送る羽目になったようです。
朝目が醒めた瞬間(とき)から、夜眠りに就く瞬間(とき)まで勘違いの連続の中で生きている。
知性とは好いとこ取りの二元論の増長と言い換えていいぐらい勘違いの原因になっているわけで、勘違いとは好いとこ取りの二元論に外なりません。
知性とは部分観の増長と言い換えてもいいぐらい勘違いの原因になっているわけで、勘違いとは部分観に外なりません。
知性とは考え方の増長と言い換えてもいいぐらい勘違いの原因になっているわけで、勘違いとは考え方に外なりません。
全体宇宙という運動(円回帰運動)する宇宙の基本法則である三の法則(誕生・生・死)が、惑星レベルにまで分化した四十八の法則の根幹を成す、「二元論」、「全体と部分の相対性の法則」、「在り方と考え方」の誤用を、知性を得た人間だけが冒しているからであります。
知性の進化が科学を生んだわけですが、全体宇宙の基本法則である誕生・生・死の円回帰運動の一過程でもあるわけですから、知性はある意味で進化と退化過程つまり産みの苦しみと言ってもよい。
誕生と死が実体あるもので、生は映像に過ぎないわけですが、誕生という始点が死という終点に円回帰するための必要過程であるわけです。
一元論(誕生)・二元論(生)・三元論(死)とは、(無知性の一)から(二)を経て(三つまり有知性の一)に円回帰する。
わたしたちの人生も、宇宙の人生とまったく同じメカニズムで成っているから、生まれた時(始点)から死(終点)への行進(進化と退化)の旅が始まるわけで、死への行進(進化と退化)の旅こそが人生に外なりません。
始点から始まって終点に戻るのですが、始点が終点でもあるのが円回帰運動に外ならない。
線的運動(二次元水平的運動)であれば、始点と終点は同じにはなり得ないが、円回帰運動(三次元立体運動)だから始点が終点になり得る。
勘違いの根源はここにある。
永遠という言葉があります。
線的運動(二次元水平的運動)における永遠とは、始点がなく、終点もないことを言うわけで、位置的永遠性のことであります。
円回帰運動(三次元立体運動)における永遠とは、始点と終点が同じことを言うわけで、運動的永遠性のことであります。
わたしたちの宇宙は運動的永遠性を本質として有しているにも拘わらず、わたしたち人間だけが位置的永遠性を希求している。
勘違いの根源がここにあり、その結果、「二元論」、「全体と部分の相対性の法則」、「在り方と考え方」の誤用を冒しているのであり、その最たるものが、時間の誤用であります。
時間を線的運動(二次元水平的運動)で捉えている。
時間を線的運動(二次元水平的運動)で捉えているから、過去・現在・未来という概念が生じるわけです。
過去・現在・未来という時間の概念の誤用が更に亢進して、1秒前・1秒後、1分前・1分後、1時間前・1時間後、1日前・1日後、1ヶ月前・1ヶ月後、1年前・1年後という前後がついていることを以て過去・現在・未来である筈が、1秒・1分・1時間・1日・1ヶ月・1年という時間の概念の誤用が為された。
これらの誤用の原因は、時間を線的運動(二次元水平的運動)で捉えた結果であり、時間の始まり(始点)と時間の終わり(終点)が永遠つまり無いという位置的永遠性を希求したからです。
時間を円回帰運動(三次元立体運動)で捉えれば、時間の始まり(始点)は時間の終わり(終点)である運動的永遠性に気づく筈であります。
時間を円回帰運動(三次元立体運動)で捉えるとは、時間を過去・現在・未来や、1秒・1分・1時間・1日・1ヶ月・1年といった量的に捉えるのではなくて、時間を高い・低い、浅い・深いといった質的に捉えることであります。
時間の物差しを抜本的に変えることが、勘違いの人生から脱却する切り札であり、そのヒントが『今、ここ』であります。
『今、ここ』が、線的運動(二次元水平的運動)で捉えた時間と円回帰運動(三次元立体運動)で捉えた時間の交差点であるからです。
わたしたちは、過ぎ去った過去は憶えているが、未だ来ぬ未来は憶えていないと思っています。
果たしてそうでしょうか。
過去とは1息前・1秒前・1分前・1時間前・1日前・1ヶ月前・1年前・1生前のことです。
未来とは1息後・1秒後・1分後・1時間後・1日後・1ヶ月後・1年後・1生後のことです。
現在とは1息前後・1秒前後・1分前後・1日前後・1ヶ月前後・1年前後・1生前後が繋がったことです。
物理学で言うところの三本の時間の矢の一本である心理的時間の矢は、過去から現在を経て未来への一方通行の流れを示していて、熱力学的時間の矢と宇宙論の時間の矢と常に同じ方向を向いている。
現在の宇宙が膨張し続けているのだから、心理的時間の矢も過去から現在を経て未来への一方通行になっているというわけです。
過ぎ去った過去は憶えているが、未だ来ぬ未来は憶えていない根拠が、この三本の時間の矢の同一方向性にあるわけです。
現在が過去・現在・未来という水平的時間の一つとするなら、現在は1息前後・1秒前後・1分前後・1日前後・1ヶ月前後・1年前後・1生前後とは言えません。
1息前・1秒前・1分前・1日前・1ヶ月前・1年前・1生前か、1息後・1秒後・1分後・1日後・1ヶ月後・1年後・1生後のどちらかでなければ一方通行になりません。
ところが先に述べましたように、現在とは1息前後・1秒前後・1分前後・1日前後・1ヶ月前後・1年前後・1生前後が繋がったことであります。
過去に思いを馳せている人にとっての現在は1息前・1秒前・1分前・1日前・1ヶ月前・1年前・1生前であり、未来に思いを馳せている人にとっての現在は1息後・1秒後・1分後・1日後・1ヶ月後・1年後・1生後であるわけですから、現在は間違いなく1息前後・1秒前後・1分前後・1日前後・1ヶ月前後・1年前後・1生前後が繋がったことです。
過去・現在・未来を時間とする水平的時間(心理的時間)の矢は一方通行である所以は、過去・未来を1息前・1息後、1秒前・1秒後、1分前・1分後、1日前・1日後、1ヶ月前・1ヶ月後、1年前・1年後、1生前・1生後といった前後関係で表現するからであって、前後が繋がった現在は水平的時間(心理的時間)の一つに組み込むことはできないのです。
1息前後・1秒前後・1分前後・1日前後・1ヶ月前後・1年前後・1生前後という現在の極限値が垂直的時間との交差点である『今、ここ』である筈です。
1息前後・1秒前後・1分前後・1日前後・1ヶ月前後・1年前後・1生前後の現在とは『今、ここ』のことであり、過去・現在・未来の現在ではなく、過去・現在・未来の現在とは『今ここ』のことに外なりません。
過去や未来に思いを馳せている人にとっての現在は過去・現在・未来の現在ですが、『今、ここ』にいる人にとっての現在は1息前後・1秒前後・1分前後・1日前後・1ヶ月前後・1年前後・1生前後が繋がった現在であるのです。
そうしますと、過ぎ去った過去は憶えているが、未だ来ぬ未来は憶えていないと思っていることは間違いであり、過ぎ去った過去も憶えているが、未だ来ぬ未来も憶えていることになります。
現在の宇宙が膨張し続けているなら、わたしたちは風船を膨らまし続けることができる筈なのに、風船は必ず破裂して収縮するのは何故でしょうか。
宇宙も風船と同じように、膨張・収縮の繰り返し運動をしているからに外ならないのであり、そうであるなら、過ぎ去った過去も、未だ来ぬ未来も憶えているに違いありません。
『今、ここ』という垂直的時間との交差点に立てば、1息前後・1秒前後・1分前後・1日前後・1ヶ月前後・1年前後・1生前後が繋がったことを現在と捉え、過ぎ去った過去も、未だ来ぬ未来も憶えている筈です。
『今ここ』という水平的時間(心理的時間)の過去・現在・未来の現在と捉えれば、過ぎ去った過去は憶えているが、未だ来ぬ未来は憶えていない。
既視感(Dejavu)現象というのがありますが、まさに『今、ここ』に立った結果、未だ来ぬ未来を憶えていて、それを思い出したからであります。
絶対性理論に依る『今、ここ』に立てば、過ぎ去った過去も、未だ来ぬ未来も憶えている人生を生きることができる。
相対性理論に依る『今ここ』に立てば、過ぎ去った過去だけを憶えて悔やみ、未だ来ぬ未来は憶えていないために取り越し苦労する人生を生きることになる。
どちらの人生を選ぶかはわたしたちひとり一人の決断に依るのです。
過ぎ去った過去は憶えているが、未だ来ぬ未来は憶えていない。
記憶という映像(光景)の原点(原風景)が過去にあり、映像の流れが過去から未来への一方通行の所以であります。
時間が過去から未来への一方通行と思い込んできたのは、記憶が過去だけのものであり、過去から未来へとパラパラ捲る静止画面(原風景)一枚一枚であるからです。
映像を映すのは静止画面、つまり、記憶の原風景である静止画面をパラパラ捲る動作に外ならないわけですが、静止画面をパラパラ捲る動作は決して一方通行ではありません。
未来から過去へパラパラ捲ることも可能なわけであり、静止画面をパラパラ捲ることによって生じる映像(動画面)の所以がここにあります。
実体ある静止画面は静止一如ですから、流れ(運動)はない。
実体のない動画面は静止・運動の繰り返し動作ですから、流れ(運動)があって、しかもその流れは両側通行である。
流れ(運動)というものは両側通行であることが本質であります。
片側(一方)通行の流れなど本来ない。
運動の本質は両側通行であるのに、無理やり一方通行にする。
好いとこ取りの相対的一元論とは、両側通行が本来である二元論を歪曲させたものであるわけです。
一方通行が二元論の本質であるなら、幸福な人間はますます幸福になっていく筈であります。
一方通行が二元論の本質であるなら、不幸な人間はますます不幸になっていく筈であります。
一方通行が二元論の本質であるなら、金持ちの人間はますます金持ちになっていく筈であります。
一方通行が二元論の本質であるなら、貧乏な人間はますます貧乏になっていく筈であります。
一方通行が二元論の本質であるなら、好きになる人間はますます好きになっていく筈であります。
一方通行が二元論の本質であるなら、嫌いになる人間はますます嫌いになっていく筈であります。
しかし現実には、幸福な人間も不幸になるし、不幸な人間も幸福になっている。
しかし現実には、金持ちの人間も貧乏になるし、貧乏な人間も金持ちになっている。
しかし現実には、好きになる人間も嫌いになるし、嫌いになる人間も好きになっている。
幸福と不幸の道は決して一方通行ではなく、両側通行なのです。
金持ちと貧乏の道は決して一方通行ではなく、両側通行なのです。
好き嫌いの道は決して一方通行ではなく、両側通行なのです。
生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄・・・健康・病気、神・悪魔・・・といった二元要因が補完関係にある一枚のコイン(表裏一体)であるのに、対立関係にある二枚のコイン(表のコインと裏のコインを別物とする)といった土台不可能なものにした挙げ句に、更に表のコインだけを欲しがり、裏のコインを忌避するという無理難題を要求しているのが、わたしたち人間であります。
土台不可能なことを無理やり可能にしようとするとフラストレーションが溜まります。
このフラストレーションこそが四苦八苦の原因に外ならないのです。
「二元論」における好いとこ取り相対的一元論。
「全体と部分の相対性の法則」における部分観。
「在り方と考え方」における考え方。
がフラストレーションという乖離(ギャップ)の原因であります。
偽モノの好いとこ取りの相対的一元論が本モノの相対的二元論を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
偽モノの部分観が本モノの全体観を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
偽モノの考え方が本モノの在り方を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
一方通行が両側通行を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
時間は過去から未来へ一方通行で流れるとする考え方が、時間は過去と未来の間を両側通行する在り方を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
過ぎ去った過去は憶えているが、未だ来ぬ未来は憶えていないとする考え方が、過ぎ去った過去も憶えているが、未だ来ぬ未来も憶えている在り方を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
知性を得たわたしたち人類も、もういい加減、目を覚まさなければなりません。
わたしたち人間は、生まれた直後に先ず名前を押しつけられ、更に言葉を押しつけられることによって映像の世界で生きる破目に陥った。
プラトンの“洞窟の比喩”でいうところの、最奥の壁に向かって縛りつけられたわけであります。
自然というジャングルの中にある檻の中に自ら入ってしまったわけであります。
洞窟の外に出たら、つまり、檻の中からジャングルに出たら、そこでは、人形(影=映像)ではない、本ものの動物たちが動き回り、木々がひろがって、燈火ではない太陽の光が溢れ、星々や、太陽それ自体を目にすることができるのです。
暗い洞窟で生きてきた、わたしたち人間(囚人)は、最初はあまりの明るさにそれらをしっかりと見てとることができないが、次第に、外の世界の太陽こそが四季やすべての事物を育み、それらが「ある」ことを成り立たせる根拠であることを理解するに至るのです。
洞窟の中で、ジャングルの真ん中にある檻の中で、つまり、映像の世界の中で生きていることに気づくには、洞窟の外に、檻の外に出ない限り出来ません。
洞窟の最奥の壁に向かって自分を縛りつけているのは、外でもない自分なのであります。
ジャングルの真ん中にある檻の中に自分を放り込んだのは、外でもない自分なのであります。
“洞窟の比喩”で言われているような、“ある時、ふとしたことでその一人が縛めを解き放たれ、頭を後ろに向けさせられたとする・・・さらに、その人は無理やり洞窟の入り口へと連れていかれ、明るい外の世界へと導いてくれる”他人は決していないのであり、洞窟の壁の前に縛りつけているのも、洞窟の入り口へ連れていってくれるのもすべて自分なのであります。
「神」という全知全能の存在がいて、わたしたち人間を見守ってくれているのでは決してないのです。
“神や自然に生かされている”のではなく、“自分で生きている”のであります。
“神や自然に生かされている”と錯覚するから、他人責任転嫁型の人間になるのです。
“自分で生きている”と気づくなら、自己完結型の人間になれるのです。
ジャングルの真ん中にある檻こそが、落とし穴に外ならない。
ジャングルの真ん中にある檻から出ることが、“清水の舞台から飛び降りる”ことに外ならないのです。
洞窟の中で、檻の中で交わしている会話こそが言葉であり、洞窟の外で、檻の外のジャングルで交わしている対話こそがア(A)・ウ(U)・ン(MN)という音なのです。
拙著「心の旅の案内書」の挿入詩である(詩集)「夕焼けの死」の(不安)という詩を最後に紹介しておきます。
不安に対してあなたは何もできないが、危険に対してあなたは何かできることを、肝に銘じておくことです。
そうでないと、死ぬまで懲りない人間になり果て、死ぬに死にきれない悲惨な一生を送ることになるのです。


(不安)

生きるとは 危険なジャングルの中に放り出されること
死ぬということは ジャングルから広大なサバンナに抜け出すこと
生まれて そして死ぬというくり返しは 夜のジャングルから 朝のサバンナへの行き帰り
それが本当の生きるということ
だけど あなたは 人間が勝手につくった檻の中にいる
檻はジャングルにもサバンナにも もともとないもの
なにかまわりの景色と合わない不自然なもの
その中に入って 生きている
鉄の格子でできている檻は丸見えのもの
その中からジャングルで起きている景色を見ていると
ますます檻から出るのが恐くなる
それが 檻の中で生きるものの愚かな宿命
不安という 目に見えない 檻の中だけにある幻想
檻から出れば 無限の広がり
すべては あなた次第の 無限の自由
だけど あなたは 檻の中から出ようとしない
不安だらけの檻の中で ただ震えるだけ
不安に対してあなたは何もできない
危険に対してあなたは何かできる 勇気さえあれば
不安を選ぶか 危険を選ぶか それは あなた次第


「哲学の道」−完−