第九章 「間人」の謎

京都、丹後半島の竹野川の河口近くに「間人(たいざ)」という町があります。
「間人(たいざ)がに」で有名な「間人(たいざ)」でありますが、聖徳太子の母君・穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)ゆかりの旧跡と、「丹後町史・間人村濫觴記録」が伝えている。
聖徳太子の母であり、用命天皇の后であった間人皇后が、夫の死後、複雑怪奇な「穴穂部」に翻弄され、蘇我馬子と物部守屋の争いに巻き込まれ、丹後の地に難を避けて、大浜の里(現在の間人村)に滞在した。
この時、間人皇后に仕えて同行した中に、後に蘇我馬子の命令で崇峻天皇を暗殺し、そして天皇殺しの罪を一身に被せられて、蘇我馬子に惨殺される東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)がいたのが象徴的であります。
しばらくして、聖徳太子と蘇我馬子に物部守屋が滅ぼされて、間人皇后は大和の地へ戻ることになったが、その時、大浜の里を離れるに際して三首の歌を残します。

大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣(ひつぎ)の ひかり見るかな

大浜の 里にむかしを とどめてし 間人村と 世々につたへん

大浜に つとふみやこの ことの葉は 行末栄ふ 人の間人

間人皇后が大浜の里を退座するのに因んで、間人(退座)村と宛名したと、「間人村濫觴記録」が伝えている。
その時、供奉の一人だった東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が、子孫をこの里にとどめ置いたのが「東」の姓で、その後連綿と引き継がれていくわけですが、この東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が後の天武王朝に深く関わっていくことを記憶に留め置いてください。
丹後の大浜の里から大和に戻って来た間人皇后は、彼女の同母弟・穴穂部皇子が物部守屋と共に蘇我馬子によって殺されたことを知る。
そして、彼女の同母弟であり、穴穂部皇子の弟でもある崇峻天皇までもが、崇峻五年(592年)に蘇我馬子によって暗殺され、いよいよ豊御食炊屋(とよみけかしきや)姫が即位して、推古女帝の時代の幕が開け、用命天皇と間人皇后の皇太子である聖徳太子が摂政となります。
蘇我馬子によって殺された間人皇后の二人の弟は、「穴穂部」、つまり、物部一族の血を引き継いだ人間だった。
誠に、不可解な話であります。
「間人」とは実在の人間であったのでしょうか。
その間人皇后が厩を通り掛った時に陣痛を催し、厩で産んだ子供が、厩戸皇子(うまやどのみこ)、すなわち、聖徳太子であった。
まるで、イエス・キリストを厩で産んだ聖母マリアと間人皇后がラップしてくるようであります。