第八章 「穴穂」の謎

聖徳太子の父君・第31代用命天皇は、第30代敏達天皇崩御後、異母弟の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を押さえて、磐余(いわれ)の池辺双槻宮(いけへのなみつきのみや)で即位し、聖徳太子の母君である穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)が皇后になります。
聖徳太子十二歳の時であります。
ここにも「穴穂」という名が複雑怪奇に現れます。
「穴穂」とは物部一族の別称であることは、前に述べました。
聖徳太子の父君・用命天皇は、深い仏教信仰の人であったようで、和泉市の松尾寺(まつのおじ)は、用命天皇の本願で役小角(えんのおずみ)が開基した寺として有名であります。
しかし、この時代はまさに、神道擁護派の物部氏と、仏教推進派の蘇我氏の争いが頂に至っていた。
用命天皇は、即位と同時に、欽明王朝以来のこの難問の決着を図らねばならない立場にありました。
ところが、用命天皇は、即位して二年後の四月二日、新嘗祭の当日に急逝してしまいます。
一説には、暗殺説があります。
聖徳太子にとっての悲劇は、父の死と共に、彼の母君である穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)の数奇な人生にあった。
穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)は、用命天皇の父君・欽明天皇と蘇我稲目の第一女である小姉君(おあねぎみ)の間の皇女であり、夫の用命天皇とは異母兄妹であったのに対し、用命天皇の母君、つまり、聖徳太子の祖母は、蘇我稲目の第二女である竪塩媛(かたしおひめ)であったからです。
用命天皇の死後、皇位継承権をめぐって、蘇我氏と物部氏の争いが激化します。
物部守屋は当然のように、穴穂部皇子を時期候補として押しました。
穴穂部皇子は、「穴穂部」が示すように、穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)の同母弟であったのを利用して、物部守屋は彼女を抱き込もうとした。
聖徳太子の立場は極めて微妙な立場であったことが、こういった経緯から、わかってきます。
「記紀」に書かれているような、聖徳太子が蘇我氏側に立って、物部守屋を撃つために四天王寺を建立した、という説を鵜呑みにできないほど、「穴穂」の意味は大きいのであります。
物部氏と蘇我氏の争いは、「神」と「仏」の争いの陰に隠れて、継体王朝の後を継ぐ、欽明王朝と敏達王朝の覇権争いに、「穴穂」一族が一枚噛んだ、まさに、易姓革命の様相を呈していたのであります。
「万世一系」が色褪せるほどの激しい権力争いが、宗教争いの舞台裏で為されていたのであります。