第七十二章 明治維新の真の意味

明治維新という言葉は、日本の近代社会への幕開けを実現したという意味で使われていますが、実際のところは、800年間続いた武家政権を親政(天皇家)に戻した、中国で言う易姓革命の意味合いが本音でした。
鎌倉時代から始まった武家政権が、源、北条、足利、織田、豊臣、徳川と政権の名は変わっても、源氏を頭領とした武家政権に変わりはありませんでした。
北条から足利に移行する時点で、後醍醐天皇が親政を目論んだが失敗に終わって以来、親政を目差す天皇は一人も輩出しなかったのです。
800年続いた武家政権を崩した明治維新。
東京の皇居に楠木正成の銅像があるのは、後醍醐天皇に与した武将としての論功行賞であったのでしょうか。
楠木正成が仕えた後醍醐天皇は南朝方の天皇であり、明徳和約以降の歴代天皇は今上天皇まで北朝方である点から鑑みて、おかしな話です。
楠木正成像は、明治23年(1890)年、伊予国(愛媛県)別子銅山の開坑200年を記念し、時の住友家当主・住友友忠が、皇室に対する忠臣としてその名を知られた楠正成の銅像を、自らが経営する別子銅山の銅を用いて鋳造し、宮内省(現、宮内庁)に献納しました。
住友友忠は銅像の完成を見ることなく若くして亡くなりましたが、その遺志を継いで銅像を献納したのが、住友財閥の開祖・住友吉左衛門です。
住友吉左衛門から銅像の制作を依頼された東京美術学校(現東京藝術大学)では、当時木彫科の主任教授であった高村光雲をはじめ複数の教授および学生が制作にたずさわり、6年後の明治29(1896)年に完成しました。
その後台座部分が完成し、現在の位置に据付が完了するのは明治33(1900)年ですが、台座部分の記文は銅像完成直後の明治30(1897)年1月の日付が記されています。
記文は下記の通りです。
「臣の祖先友信が伊予別子銅山の銅坑を開いてより、子孫業を継ぎ二百年、亡兄友忠深く国恩に感じ、その銅を用いて楠公正成の像を鋳造し、之を闕下に献ぜんと欲し、允を蒙りて未だ果たさず、臣其の志を継ぎ、工事を董し功竣るに及んで謹んで献す
明治三十年一月 従五位 臣 住友吉左衛門 謹識」

つまり、北朝方の明治天皇が楠木正成の銅像を皇居に置くことを認めたわけです。
明治維新の真の意味は、別のところに隠されているのではないでしょうか。