第五十四章 易姓革命の申し子

250年の江戸時代を維持した徳川政権にも、御三家時代と御三卿時代があったように、万世一系を誇る天皇家の内実は、天智朝と天武朝、北朝と南朝といった大きく分けて二つの流れがあります。
徳川政権の二つの流れである御三家時代と御三卿時代の分岐点に八代将軍・徳川吉宗がいるように、天皇家の二つの流れの分岐点に聖徳太子の存在があります。
徳川家康を開祖とした徳川幕府は、八代将軍・徳川吉宗までは徳川宗家と尾張・水戸・紀州の御三家で構成された政権でしたが、八代将軍・徳川吉宗以降は、田安・一橋・清水の御三卿で構成された政権でした。
徳川幕府最後の将軍である十五代将軍・徳川慶喜は、本来は水戸家の人間でしたが、御三卿のひとつである一橋家の当主から十五代将軍になった事実は、御三卿からでないと将軍になれない慣習が確立されていたことを証明しています。
では、その分岐点の存在感を示した八代将軍・徳川吉宗とは、どんな出自の人物であったのか。
そこに、聖徳太子の実像に迫るヒントが隠されているのではないでしょうか。
八代将軍・徳川吉宗は、幼名加納新之助と呼ばれていました。
紀州二代藩主・徳川光貞の三男として生まれたが、母君が百姓の娘という低い身分であったため、家老の加納久通の養子として育てられたからです。
大運の持ち主であった吉宗は、二人の兄の急死のお陰で、紀州藩主のみならず、徳川宗家が引き継ぐべき将軍の座までも射止めた。
中国では常識の「易姓革命」に近い出来事であったわけで、その象徴が御三卿の誕生であったわけです。
天皇家にも実は「易姓革命」が何度かあった。
その鍵を握っているのが聖徳太子なのです。