第五章 「天皇」という称号

「天皇」という称号が使われ出したのは、第33代推古天皇(女帝)からであり、その時の摂政が推古天皇の甥であった聖徳太子であります。
それ以前の天皇はすべて「大王(おおきみ)」と呼ばれており、在位期間も在世期間も不明であるのに対し、推古天皇の在世期間は554年〜628年、在位期間は592年〜628年と明確になっています。
日本建国は紀元節に始まりますが、これは、中国古代の予言説である讖緯説(しんいせつ)に基づいて設定されただけです。
町田甲一氏著(『法隆寺』時事通信社、昭和62年)から引用します。
「わが国の文章博士の三善清行が延喜元年に奏上した革命勘文に引用されている誠に不完全な史料によれば、六甲つまり六十年を一元となし、七元の間に三たび変化があって、その七と三とを相乗して(なぜ七と三を相乗するのかは明らかでない)二十一という数字を得て、二十一元つまり一二六〇年を一蔀(ぼう)となし、この一蔀を歴史運行における一番大きな周期の単位とするというのである。
また清行の勘文に『易緯云、以辛酉為首』とあり、辛酉(しんゆう)の年をもって一蔀の首年となし、この年に政治上もっとも大きな変革があるとしている。
この易緯にいう辛酉革命によって、推古九年(601年)から一蔀前、すなわち一二六〇年前の辛酉の年(紀元前六六〇年)に、我が国における最も大きな政治的、歴史的変革があったと考えて、神武天皇の即位を、その年にあてて、のちの『書紀』の紀年が整えられたことは、多くの人の知るところである」
即ち、「万世一系」の天皇家といえども、年号が明確になっているのは、第33代推古天皇からであり、それ以前の天皇は???の存在に過ぎなかったと言えます。
「天皇」という称号は、中国の古典に北極星を表わす言葉としてはじめて出てきます。
唐の高宗が674年に、それまで「皇帝」と名乗っていたのを「天皇」と改称しています。
第32代用命天皇(聖徳太子の父)のあと、皇位を継いだのは崇峻(祟峻)天皇でしたが、その即位前、蘇我馬子と勢力を二分していた物部守屋は、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を擁立しようとしたが、蘇我馬子は先手を打って豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)‐後の推古天皇‐に詔(みことのり)を出させ、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を殺してしまいます。
この事件を皮切りに、物部氏と蘇我氏との対立はいっそう激化し、遂に戦となり、物部氏は蘇我氏に滅ぼされてしまいます。
蘇我氏側に立って戦ったのが当時14才の聖徳太子であり、聖徳太子が勝利を祈願して建立したのが大坂の四天王寺であります。
蘇我・物部戦争は実は倭の国、つまり、日本の覇権争いに他ならなかった。
大阪府堺市にある世界最大の前方後円墳墓の仁徳天皇陵。
第16代仁徳天皇の孫で第20代安康天皇の諱(いみな)、つまり、幼名は「穴穂(あなほ)」であり、「穴穂天皇」とも呼ばれ、物部大前という忠臣がいたと日本書紀は伝えています。
物部の本拠地である石上(いそのかみ)に都を置き、「穴穂宮」と呼んでいました。
つまり、物部氏によって擁立された大王(おおきみ)であったわけです。
渡来人による倭国の大王(おおきみ)覇権争いが、天皇家の「万世一系」の正体であったのではないでしょうか。
その覇権争いに決着がついた結果、それまで倭国の大王(おおきみ)に過ぎなかった者が「天皇」という称号をつけるようになって、第33代推古天皇が誕生した。
一小国であった倭国から、日本という国家が誕生した瞬間であったのです。