第四十四章 祭政一致

宗教は、飽くまで、個人の精神の救済を宗(旨)としている。
我々現代人は、そう信じて止みません。
しかし、果たしてそうなのでしょうか。
歴史を学ぶだけでは、そう信じざるを得ません。
しかし、歴史を書いた者と宗教をつくった者が、同じ穴の狢だとするなら、宗教の真の狙いは、個人の精神の救済などでは決してなく、逆に、個人の精神の束縛にあったとしか言い様がありません。
キリスト教が世界最大の宗教になり得たのは、イエス・キリストという人物が、はじめて個人の精神の救済を説いたからで、その教えの封じ込め策がキリスト教であったわけです。
つまり、キリスト教の教えとは、イエス・キリストの説いた話の正反対ばかりで埋め尽くされているわけです。
ローマ・バチカン、つまり、カトリックの教えが、新約聖書ではなく、ローマ・バチカンの教皇他の枢機卿を絶対とする点に、その意図が読み取れます。
宗教改革を断行した、マルチン・ルターがローマ・バチカンに挑戦した点は、ここにあります。
だから、彼が興したプロテスタントは、飽くまで、イエスの言葉を残した新約聖書を基本教義としているわけです。
しかし、その新約聖書の中心を成すのがパウロの教えですから、これもまたイエスの真の言葉とは信じられないわけです。
宗教とは、個人の精神の救済ではなく、個人の精神の束縛であったとするなら、それは一体何の目的であったのでしょうか。
聖徳太子に因んだ有名な言葉に「祭政一致」というものがあります。
宗教と政治は一枚岩だという意味であります。
現代民主主義社会では、「祭政一致」の反義語である「政教分離」という言葉が常識になっています。
しかし、現在の日本の政治は未だに「祭政一致」の政治をしている。
与党の一つである公明党は「祭政一致」の政党なのです。
「祭政一致」とは、宗教者と政治家、つまり、歴史を書く者が同じ穴の狢であることに他なりません。