第三章 司馬達等と達頭汗

聖徳太子のもう一人有力な家臣として司馬達等がいます。
司馬達等(しばだっと)は、6世紀頃に朝鮮半島から渡来した人物で、一説には梁の人とも言われます。
鞍部村主(くらつくりのすぐり)司馬達等とも記され、その子には鞍作多須奈(くらつくりたすな)、その孫に飛鳥寺の丈六仏(飛鳥大仏)や法隆寺金堂の釈迦三尊像の作者として有名な仏師・鞍作止利(くらつくりとり)がいます。
当時の中国王朝は隋で、隋は581年の建国以来、高句麗と東突厥の連合軍による攻撃に苦しめられ続けていて、とりわけ東突厥の木杆の子・阿波(アバ)の存在に手を焼いていました。
隋は、西突厥可汗・達頭に突厥のシンボルである狼の旗を贈り、西突厥を味方に付けようとしました。
ところが、肝腎の東突厥の阿波は、母系社会の騎馬民族では本妻の子以外はなかなかチャンスに恵まれず、母親の身分が低いという理由で父のあとを継げず、一家を皆殺しにされ、583年、西突厥の達頭のもとに身を寄せるという事件が起きた。
あわてたのは隋である。
阿波と達頭が手を結べば、西突厥はあまりにも強くなりすぎてしまう。
隋は仕方なく東突厥の阿波と西突厥の達頭との分断作戦を採り、遂に阿波の捕獲に成功したが、なぜか阿波は585年に無傷で釈放され、阿波と達頭は爾来中国史上から姿を消してしまいます。
司馬達等はちょうどその頃に日本にやってきます。
一方、阿波が突然すがたを消した585年の日本では、聖徳太子の父・用命天皇が即位した年でもあり、用命天皇の妹である炊屋姫(かしきやひめ‐後の推古天皇)を犯そうとした穴穂部皇子(あなほべのみこ)を物部守屋が天皇に立てようとした事件が起き、また、物部守屋が蘇我馬子の寺を焼いた年でもあります。
日本書紀では、物部守屋は唐突に現われたと述べられるだけで、物部尾輿の子であるとは述べられていません。
物部守屋は物部氏に婿入りした突厥人・阿波であり、司馬達等は蘇我氏に婿入りした突厥人・達頭汗であった。
そして司馬達等こそが・・・。