第二十六章 十七条憲法

我々は宗教というものを勘違いしてきたようです。
宗教とは迷える魂の救済(Salvation)と信じてきた。
キリスト教は、罪業(Sin)からの魂の救済だと教えてきた。
七つの大罪(Seven Deadly Sins)、すなわち、傲慢(Pride)、嫉妬(Envy)、怒り(Anger)、怠惰(Sloth)、強欲(Greed)、暴食(Gluttony)、色欲(Lust)によって迷い道に入り込んでしまった魂の救済が宗教と信じてきた。
罪業(Sin)という英語の語源は、「逃すこと(Missing)」という英語であって、その由来はヘブライ語から来ている。
キリスト教の元祖がユダヤ教である所以です。
イスラム教の元祖がユダヤ教である所以です。
そうしますと、神道も仏教もみんな同じ穴の狢であったことになり、しかも、本来の宗教の目的は、迷った魂の救済ではなく、一握りの支配者が圧倒的多数の被支配者(奴隷・一般大衆)を支配する手段にあったのです。
そうしますと、十七条憲法を制定した聖徳太子の意図とは何であったのかが見えてくるような気がします。
以下、聖徳太子の十七条憲法を紹介しておきます。


聖徳太子の十七条憲法

「一に曰く
 和を以って貴(たつと)しとなす。さからうことなきを宗とせよ。人みな党ありて、また達(さと)れるもの少なし。是を以って、或いは君父に順(したが)わずして、また隣里に違う。しかれども、上和(やわら)ぎ、下睦(むつ)びて、事を論ずるに諧(かな)えば、則ち事理おのずから通じ、何事か成らざらむ。」

(現代解釈)
人間にとって、和が大切である。我を張って、人にさからってはならない。人間は、ともすれば徒党を組んで悪を働き、物事の道理を解っている者は少ない。だから目上の者や親に従順でなかったり、まわりの人々と仲たがいをしたりする。
しかし、上の者が和やかな気持ちを以って下の者に接し、下の者も親しみを以って上と仲良くすれば、どんなに議論をしても、どこかでまとまるものである。上も下も、このような気持ちを以って和を重視すれば、何事も成就しないものはない。

「二に曰く
 篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何(いず)れの人か、この法を貴(たっと)ばざる。人尤(はなは)だ悪しきものは鮮(すくな)し。よく教うれば、これに従わむ。其れ三宝に帰せずんば、何を以ってか曲がれるを直(なお)くせむ」

(現代解釈)
真摯に三つの宝を大事にしなさい。三つの宝とは仏と法と僧である。
仏は師と仰ぐ人をいい、その師の説かれた教えを法といい、そしてその法を広めるのが僧徒であり、いわゆる聖職者である。
人間はもちろんのこと、四生(胎生・卵生・湿生・化生の四種類の生物をいい、哺乳類・鳥類・節足類)も、つまりあらゆる生物も結局この法に従わなければならない。
その観点から言えば、人間も本来、そんなに悪人はいないのである。
よく真理を教えれば、素直に従うものである。
したがって、この法に従わなければ、曲がった根性を直すことはできない。

「三に曰く
詔(みことのり)を承りては、必ず慎め。君は則ち天なり、臣は則ち地なり。天覆い地載せて、四時順(めぐ)り行き、万気通ずるを得。地、天を覆わむと欲するときは、則ち壊を致さむのみ。是を以って、君言えば、臣承り、上行えば下靡(なび)く。故に詔を承りては、必ず慎め。慎まずんば、自ら敗れむ。」

(現代解釈)
詔(みことのり)とは、当時は天皇の言葉であったが、現代に当てはめれば天であり、すなわち自然の摂理と考えてもいい。
地は、我々凡人である人間一般を指している。
つまり、自然の摂理をよく守り、自然を君主と思い、人間である自分を家臣と思って君主の命、すなわち自然の摂理に従わなくてはならない。そうすれば天は上から覆い、地は万物を載せるという自然の理が正しく行われて、四時つまり春夏秋冬も順調にゆき、万物は自然の法則のままに正しく生成変化する。
一度(ひとたび)この法則を破って、逆に地が天を覆う、つまり人間が自然の摂理に逆らうようなことがあれば、大地自らが壊れてしまい、人類の破滅に通じる。

「四に曰く
 群卿百僚、礼を以って本とせよ。其れ民を治むるの本は、要 礼に在り。
上 礼なきときは 下 斉(ととの)わず、下 礼なきときは、以って必ず罪有り。是を以って、君臣礼有れば、位次乱れず。百姓礼有れば、国家自ら治まる」

(現代解釈)
役人たちは、礼を根本にしなければならない。元来人民を治める根本は、必ず礼にある。もし上の者が、礼を重んじなかったならば、下の人民もこれにならって、社会の秩序が保たれない。民衆の間に礼がなかったらならば、必ず罪悪が蔓延する。
それ故、君臣、つまり役人や上の者たちと民衆との間に礼が正しく行われておれば、下が上を軽蔑することもなく、従って世の中の秩序も正しく維持される。また人民の間にも礼が守られていれば、国家は自然に治まるものである。

「五に曰く
 餮(てつ)を絶ち、欲を捨てて、明らかに訴訟を弁ぜよ。其れ百姓の訴えは、一日に千事あり。一日すら尚(なお)爾(しか)るを、況(いわん)や累歳をや。頃(このご)ろ、訴えを治むるもの、利を得るを常となし、賄を見て讒(げん)を聴く。すなわち財ある者の訟は、石を水に投ぐるが如く、乏しき者の訟は、水を石に投ぐるに似たり。是を以って、貧民は則ち由るところを知らず、臣道も亦、焉(ここ)に於て闕(か)く。」

(現代解釈)
餮(てつ)とは貪り食らうことであり、裁判官は事に当たり、貪り食らう心を捨てて、公明正大に人民の訴訟を裁かねばならない。人民の訴えというものは、日々たくさんあるから、年月を重ねると、多くの事件が堆積する。
このごろの裁判官は、私利をはかることを常とし、賄賂の多少によって、裁判を手加減している。財産のある者の訴えは、ただちに有利に判決をしてやり、貧しい者の訴えは、一向手ごたえがない。それでは貧乏人たちは頼るところがなくて、結局臣たる者の道も立たぬことになる。

「六に曰く
 悪を懲らし善を勧むるは、古(いにしえ)の良典なり。是を以って、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては、必ず匡(ただ)せ。其れ諂(へつら)い詐(いつわ)るものは、則ち国家を覆すの利器たり。人民を絶つの鋒剣たり。また佞媚(ねいび)する者は、上に対しては、則ち好みて下の過ちを説き、下に逢いては、則ち上の失を誹謗す。其れかくの如き人は、みな君に忠なく、民に仁なし。是れ大乱の本なり」


(現代解釈)
悪を懲らしめ、善を勧める。すなわち勧善懲悪は、古来からの良い法則である。役人は人の良い行いを匿(かく)すことなく、悪を見つけたら、これを必ず糾明して、再び悪をさせないようにしなければならない。おべっかを使い、偽りを言うようなことは国家を覆すもので、人民を不幸な目に遭わせることになる。媚びへつらう者は、上に向かっては下の者の悪口を言い、下に向かっては、上の悪口を言うものである。こういう人間は、君に忠節の心がなく、また人民に対して仁愛の心を持たない者で、国家大乱のもとである。

「七に曰く
 人、各々任あり。掌(つかさど)ること宜しく濫(みだ)れざるべし。其れ賢哲 官に任ずれば頌(しょう)音則ち起こり、奸者官を有(も)つときは、禍乱則ち繁し。世に生知(苦労せず自然に頭がきくこと)少(まれ)なれども、尅(よく)念(おも)えば聖と作(な)る。事 大小となく、人を得れば、必ず治まり、時 急緩となく、賢に遭えば、自ら寛なり。此に因りて、国家永く久しくして、社稷(しゃしょく)危うきこと勿(な)し。故に古(いにしえ)の聖王は、官の為にして以って人を求め、人のために官を求めたまわざりき」


(現代解釈)
官吏というものには、それぞれの任務がある。これをみだすようなことをしてはならない。賢明な人が官に任ずれば、人民から礼賛が起こるし、反対に、奸邪な者が役職につけば、いろいろな禍や乱を生じる。世に生知(自然によくできる)の人は少ないが、よく考えて、立派にならねばならない。また事も大小となく、適所に適材を得たならば、必ず治まるものであり、また世の中が無事の時でも、非常の時でも、賢人が政治の衝に当たったならば、おだやかに治まる。これによって国家は永続し、世の中は安泰である。そうであるから、古の聖王は、官のために人材を求められたのであって、決して人のために官を求めはしなかったのである。

「八に曰く
 群卿百僚、早く朝(ちょう)して晏(おそく)退(ひ)け。公事鹽(おろそか)にする靡(な)かれ。終日にても尽くしがたし。是を以って、遅く朝すれば、急なるに逮(およ)ばず、早く退けば、必ず事尽くさず」


(現代解釈)
諸臣は朝早く出勤して、日暮れて退出するように心がけよ。官の仕事というものは、おろそかにできないもので、一日中かかっても、なかなか尽くせるものではない。
故に朝おそく出勤したのでは、満足に事務の処理のできようはずがなく、また早く退庁するようでは、必ず仕事がし尽くせず、職務怠慢となる。

「九に曰く
 信はこれ義の本なり。事毎に信あれ。其れ善悪成敗は、要、信にあり。群臣共に信あれば、何事か成らざらむ。群臣信なくんば、万事悉く敗れむ」

(現代解釈)
信があって義が立つのである。何事にも、すべて信がなければならない。善悪とか成功失敗は、要するに、この信があるかないかによって決まるものである。群臣たがいに信があったならば、何事も必ず成就しないことはない。群臣に信なければ、万事失敗である。

「十に曰く
 忿(ふん)を絶ち、瞋(しん)を棄てて、人の違うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執ることあり。彼、是なれば、則ち我、非なり。我、是なれば、則ち彼、非なり。我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理、誰か能く定むべけむや。相ともに賢愚なること、鐶(かん)の端なきが如し。是を以って、彼の人瞋(いか)るといえども、還ってわが失を恐れよ。われ独り得たりといえども、衆に従って同じく挙(おこな)え」

(現代解釈)
心の中の怒りを棄てるようにせよ。人が自分と違うからといって怒ってはならない。
人それぞれ心がある。それぞれ意見を持っている。彼が正しいなら、こちらが間違っているのである。彼が間違っておれば、こちらが正しいのである。こちらが絶対、賢とはかぎらず、人が必ず愚とはかぎらない。共に凡夫に過ぎない。是非善悪は容易に定められるものではない。互いに賢愚といっても、円い輪に両端がないのと同じで、要するにお互いさまである。こういう次第だから、人が怒った時もよく自分を反省し、また自分ひとりこれでよいと思っても、異を立てずに、たいていのことは衆に従って同じようにやるがよい。

「十一に曰く
 明らかに功過を察し、賞罰必ず当(ただし)くせよ。日者(このごろ)、賞は功に在(お)いてせず、罰は罪に在(お)いてせず。事を執(と)るの群卿、宜しく賞罰を明らかにすべし」

(現代解釈)
功績や過ちを公明に調べて、それぞれ賞罰当を失わぬようにせよ。近頃、功もないのに賞し、罪もないのに罰するようなことが行われている。当局者は賞罰を明らかにせよ。

「十二に曰く
 国司・国造(くにのみやつこ)、百姓より斂(おさ)めること勿(なか)れ。国に二君非(な)く、民に両主無し。率土(そっと)の兆民、王を以って主となす。任ずるところの官司は、みなこれ王臣なり。何ぞ敢えて公の与(ため)に百姓を賦斂(ふれん)せむや」

(現代解釈)
地方官や地方祭祀は、勝手に人民から税をとりたててはならない。国家に二人の君主はなく、人民にとって二人の主人はいらない。日本中の人民は天を王とすべし。
任ずるところの役人はみな天の僕なり。国司や国造が公職にある身を以って私事のために徴税してはならない。


「十三に曰く
 諸(もろもろ)の官に任ずる者は、同じく職掌を知れ。或いは病し、或いは使して、事に闕(か)くることあり。しかれども、知ることを得る日には、和すること嘗(かつ)てより識(し)れるが如くせよ。其れ与(あずか)り聞くこと非(な)しというを以って、公務を妨ぐること勿(なか)れ」

(現代解釈)
諸役人は、同僚の仕事をもよく知りなさい。誰でも病気をしたり、使いに出されたりして、仕事の出来ないことがある。このような場合、同僚は頼まれたら、気持ちよく、前からの知り合いと同じように、手を貸さねばならない。自分は関係がないと言って、公務に支障をきたしてはならない。

「十四に曰く 
 群臣百僚、嫉妬あることなかれ。われ既に人を嫉まば、人また我を嫉まむ。嫉妬の患、その極みを知らず。所以に智、己に勝れば、則ち悦ばず、才、己に優れば、則ち嫉妬す。是を以って、五百歳の後、乃(すなわ)ち賢に遭わしむとも、千載にして以って、一聖を待つこと難し。其れ聖賢を得ざれば、何を以ってか国を治めむ」

(現代解釈)
役人というものは、人を嫉み妬む心があってはならない。自分が人を妬むと、人もまた我を妬むであろう。かような嫉妬心の弊害は、実にきりのないものであって、頭が自分より良ければ、おもしろくなく、才能が自分に優っていれば、また妬む。賢人は五百歳に一人ということもあり、聖人は千年にして一人をも得がたいということもある。しかしその優れた人物を得なければ、国を治めることはできない。

「十五に曰く
 私に背きて公に向かうは、是れ臣の道なり。凡(およ)そ人、私あれば必ず恨みあり。憾(うらみ)あれば、必ず同じうせず。同じうせざれば、則ち私を以って公を妨ぐ。憾(うらみ)起これば、則ち制に違い、法を害(そこな)う。故に初章に曰く、上下和諧せよと。其れまた是の情なるか」

(現代解釈)
私事を去り、公につくことが、臣たる道である。人間というものは、私心私欲があれば、必ず不満・恨みがある。人のこれがあると、和することができない。和することができないと、私心を以って公事を妨げる。そして法をやぶり制にそむくようなこととなる。この憲法の第一条に「上下和諧せよ」と言ったのはこのことである。

「十六に曰く
 民を使うに時を以ってするは、古(いにしえ)の良典なり。故に冬月、間あれば、以って民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑の節なり。民を使うべからず。其れ農せざれば、何をか食せむ。桑とらずば、何をか服(き)む」

(現代解釈)
「民を使うに時を以ってす」とは古の良い法則である。民を公役に使うに際しては、特に時季ということをよく考えねばならない。冬の間は、農業も暇であるから、民を賦役に使う場合は、なるべくこの間を利用して、民に迷惑をかけないようにせよ。春から秋までは、農蚕業の忙しい時である。民を使役してはならない。もし民が農耕にいそしまなかったならば、国民は何を食って生きるか。また養蚕をしなかったならば、何を着てゆけるのか。

「十七に曰く
 大事は独り断ずべからず。必ず衆と与(とも)に宜しく論ずべし。小事はこれ軽し、必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論ずるに逮(およ)びては、若し失あらむことを疑う。故に衆と与(とも)に相弁ずるときは、辞則ち理を得む」

(現代解釈)
国家の大事は決して独断してはならぬ。必ず衆人と合議せよ。尤も些細なことは、必ずしも、いちいち衆議にかけなくともよろしい。ただ大事を論議するに当たっては、過失があってはならぬから、衆とともに十分論議を尽くせば、筋道が立つであろう。