第二十二章 仏教の伝来

仏教伝来について史実の語るところを紹介しておきます。
西暦538年。(日本書紀説:西暦552年。元興寺縁起説:西暦538年)
第29代欽明天皇の治世、百済の聖明王(せいめいおう)の使者が天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりであります。
その後、推古天皇の時代に「仏教興隆の詔」が出され、各地で寺院建設が始まりました。
難波津(現在の大阪府)に着いた聖明王(せいめいおう)の使者は、大和川を船で上り、初瀬川河畔の海柘榴市(つばいち:奈良県桜井市金屋)に上陸しました。
大阪湾から入ってきた港で、この辺りに大きな市が開かれていたようです。
古代の大阪湾は内陸部に湾入し、湖(草香江)を形成していましたが、その湖が干拓され平野がつくられていきます。
大和川は石川と合流して西北へ流れ、何本かの川に分かれて旧淀川から大阪湾へ流れ出ていました。
大和川は流域住民に大きな水害をもたらしていましたが、西暦1704年に大和川の付け替え工事で流れを大きく変えることで、その被害を抑えることができたようです。
現在の大和川河口はこの江戸時代の工事によってできたものです。
西暦621年。
聖徳太子は、学問修行の道場として「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」を建て、推古天皇がこの精舎を「額安寺」と命名したと伝えられている寺が大和郡山市にありますが、この近くに大和川が佐保川と合流する所があります。
古代の水運の要所であったようで、外国からの使者や文物が上陸した場所でした。
淀川ではなくて大和川が当時の交通の要所であったことを物語っています。
一方、明日香村・甘樫丘(あまがしおか)の東麓斜面から数棟の掘立柱建物跡や石垣が発掘されて話題となっている蘇我氏は、これまで謀反を企てた悪者と扱われてきましたが、飛鳥の発掘によってそのイメージが大きく変わろうとしています。
6世紀中葉に日本(倭国)に仏教が伝来し、日本人の文化や精神世界に大きな影響を与えたのは聖徳太子の力によるところが大きいと言われてきましたが、最初に仏教に興味を示したのは蘇我氏でした。
なぜ日本に仏教が伝わったか。
(1) 百済の聖明王(せいめいおう)が機会を伺って政策として使者を遣わした。
(2) 早くから国外に目を向けていた蘇我氏が、深い繋がりのあった百済系氏族から中国や朝鮮半島の情勢を入手して、彼らが要請したから使者が送られてきた。
仏教伝来年には2説あります。
西暦552年−『日本書紀説』
百済の聖明王(せいめいおう)が怒利斯到契(ぬりしちけい)という使者を送ってきて、朝廷に釈迦仏(金銅製)一体,幡蓋(はたきぬがさ)、経論数巻を献上した。
西暦538年−『上宮聖徳法王帝説』−8世紀初めに成立したとされ、日本書紀と並ぶ書物で、主として聖徳太子の伝記が書かれている。
仏教が日本に伝来したのは「志帰嶋(しきしま)天皇:欽明天皇の時代で、戊午(つちのえうま)の年10月12日、百済国の主明王(聖明王)が初めて渡ってきて、仏像・経教,僧等を奉る」とあります。
欽明天皇が即位した年を西暦531年としているので、仏教伝来は西暦538年となります。
西暦538年−『元興寺縁起説』
『元興寺縁起』は元興寺(飛鳥寺)創建の由来が書かれた書物であり、『上宮聖徳法王帝説』同様『日本書紀』が書かれる以前の資料に基づいて作成されたものです。
欽明天皇が、仏教を礼拝すべきかを臣下たちに訊ねた。
蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)が答えた。
“大陸の優れた文化であり、西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきである”
崇仏派の誕生です。
物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)と中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)が反論した。
“外国の神を受け入れれば、日本古来の「神(国津神)」が怒る”
排仏派の誕生です。
欽明天皇は“試しに拝んでみるように”と、仏像や教典を蘇我稲目に授けた。
稲目は小墾田の自宅に安置し、向原(むくはら)の家を浄めて寺とした。
この時より向原の家は日本最初の寺となった現在の飛鳥の向原寺です。
国内で疫病が流行った時、排仏派の物部尾輿は、その原因が仏教を受け入れた所為だと批判したため、西暦570年に蘇我稲目が死去すると、欽明天皇の許可を得て蘇我稲目の向原の家を焼き払ってしまいます。
家は焼けても仏像は燃えなかったため、仕方なくこれを難波津の堀江に投げ込んだが、疫病は依然なくならず、天災も続きました。
後に、推古天皇は向原の地を宮として、小墾田(おはりだ)の宮に移った後は豊浦寺(とゆらじ)としました。
物部尾輿が仏像を投げ捨てた池と伝わる難波池は、「難波の堀江」と呼ばれていました。
因みに日本書紀によると、仁徳天皇11年に、田畑が少ないのは洪水や高潮のためで、これを防ぐために難波宮の北の野を拓いて水路を造らせ、この水路によって水は大阪湾に排水され、これを「堀江」と名付けたとあります。
当時「難波の堀江」と呼ばれていたのは難波宮の北にあった水路であり、難波は大陸文化が入ってくる玄関であったので、朝鮮半島に向かって仏像を海に投げ捨てたのではないかと考えられます。
投げ捨てられて池に沈んでいた仏像は、信濃の国から都に来て、この池の前を偶然通りかかった信州の住人で本多善光(ほんだよしみつ)という人物によって発見されました。
長野の善光寺縁起によると、仏像は聖徳太子の祈りに一度だけ水面に現れたが、再び底に沈んだままとなっていたが、本多善光が池の前に来ると、金色の姿を現して、善光こそ百済の聖明王(せいめいおう)の生まれ変わりであると告げます。
善光はこの仏像(阿弥陀如来像)を背負って信濃にもどり、自宅の西の間の臼(座光の臼)の上に置きました。
ここが現在「元善光寺」があるところで、その後、西暦642年、皇極天皇の時代に、如来のお告げにより、本多善光が長野の善光寺に本尊を遷座した。
善光寺の創建に関わる話です。
西暦584年9月。
鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩の石像一体、佐伯連(さえきむらじ)が仏像一体を持って百済からもどってきました。
蘇我馬子が全国に修行者を探させたところ、播磨にいた恵便(えべん)という高麗からの渡来人がいることがわかり、恵便を仏教の師とし、さらに3人の娘を出家させて尼としました。
自分の家の東に仏殿を建立し、弥勒菩薩の石造を安置し、更に、石川の自宅−石川精舎(しょうじゃ)にも仏殿を建てて仏像を収め、西暦585年2月には、大野の丘に塔を建てます。
疫病がはやり、古来よりの神々の祟りだと騒がれ始めたため、崇仏を承認していた敏達天皇も、物部守屋や中臣勝海の主張を聞き入れて排仏命令を出します。
機会を窺っていた物部守屋は、仏殿や塔に火を放ち焼き払ってしまいましたが、その後も疫病は治まらないばかりか、敏達天皇や馬子、守屋までが病気になってしまいます。
馬子は崇仏の天皇から再び崇仏の許可をもらうと、たちどころに病が治りましたが、天皇は崩御してしまい、続く用明天皇も西暦587年、在位わずか2年で崩御してしまいます。
この後の天皇を誰にするかで物部氏と蘇我氏の対立が激化します。
蘇我馬子の推薦・・・・妹と欽明天皇との子の泊瀬部(はつせべ)皇子。
物部守屋の推薦・・・・敏達天皇の弟の穴穂部(あなほべ)皇子。
自ら討たれる前に先手を打った馬子は穴穂部皇子を殺害してしまいます。
こうして、蘇我氏が推す泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位しますが、崇峻天皇も馬子の命令を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって暗殺されます。
この後、蘇我氏と物部氏は武力衝突を起こし、丁未(ていび)の変へと発展します。
権力闘争に勝利した蘇我馬子や聖徳太子は、「仏法興隆」をめざし、その後本格的な寺院建設を行っていきます。
法興寺(ほうこうじ)は明日香村にあり、現在は飛鳥寺(「安居院」)として知られていますが、我が国最初の本格的な伽藍配置の寺院として蘇我氏によって建立されたものです。
飛鳥寺は日本で最初の瓦葺き寺院でもあり、掘立柱の板葺き建物しか見ていない人々にとっては外国の文化を直接感じるものであったようです。
瓦の使用の他にも寺院建築には多くの渡来人の技術が使われていて、掘立柱式の建築から石の上に柱を立てる礎石を用いた技法もその一つで、それまでの建築方法が一変した。
聖徳太子が建立した大阪の四天王寺、奈良の法隆寺はその代表的なものです。