第二十一章 国際人・聖徳太子

西暦574年2月7日。
聖徳太子の誕生日であります。
西暦581年。
隋王朝が建国されました。
高句麗と東突厥の連合軍による攻撃に苦しめられ続けていた隋は、とりわけ東突厥の阿波(アバ)の存在に手を焼き、西突厥の達頭(タルド)に突厥のシンボルである狼の旗を贈り、西突厥を味方に付けようとしたが、肝腎の東突厥の阿波(アバ)が一家を皆殺しにされ西突厥の達頭(タルド)と手を結んだ。
西暦583年の出来事です。
隋は東突厥の阿波(アバ)と西突厥の達頭(タルド)との分断作戦を採り、遂に阿波の捕獲に成功したが、なぜか阿波(アバ)は無傷で釈放され、阿波(アバ)と達頭(タルド)は爾来中国史上から姿を消してしまった。
西暦585年の出来事であり、聖徳太子12才の時です。
司馬達等(しばたっと)はちょうどその頃に日本にやってきます。
達等(たっと)と達頭(タルド)。
司馬達等(しばたっと)は西暦600年(推古8年)に北九州に上陸し、瀬戸内海を東進、西暦601年(推古9年)に播洲の明石浦に乗り上げ、現在の兵庫県揖保郡鵤(いかるが)庄に落ち着きます。
聖徳太子26才の時です。
兵庫県揖保郡鵤(いかるが)町には斑鳩寺がありますが、そこには、聖徳太子16歳の時の像があり、更に、先に述べました、「聖徳太子の地球義」がある。
16歳の時の太子像が聖徳太子ゆかりの28古刹のいたるところにあります。
中国の歴史から突如姿を消す前の西突厥の達頭(タルド)の勢力範囲は、東ローマ帝国にまで及び、西暦598年に東ローマ帝国皇帝マリウスに書簡を送っています。
「世界の七人種の大首領、七国土の君長たる可汗は敬いてローマ皇帝に曰(もう)す」
「七人種の大首領、七国土の君長」という言い回しはペルシャやアラブの世界では常套語となっている点から、達頭(タルド)の側近にペルシャ人かアラブ人がいたようであり、この書簡の冒頭の文章は、聖徳太子が隋の煬帝に送った書簡の冒頭文「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)を髣髴させます。
西突厥の達頭(タルド)と司馬達等(しばたっと)。
司馬達等(しばたっと)と聖徳太子。
彼らに共通する点は、ユーラシア大陸を縦横無尽に往来する国際人のイメージであり、聖徳太子は紛れもなく国際人であったと言えるでしょう。
西暦622年4月8日。
聖徳太子の命日であります。
因みに聖徳太子の命日である4月8日が、仏教の開祖・釈迦の誕生日である点にも、何かの意図が垣間見えるようです。