第二十章 聖徳太子の地球儀

聖徳太子ゆかりの二十八古刹の最後を飾るのが兵庫県揖保郡鵤(いかるが)町
にある斑鳩(いかるが)寺で、そこに聖徳太子の地球儀が残っています。
ハンドボールよりも少し小さ目の手鞠のようなものですが、その中に日本列島がちゃんとあり、南太平洋の辺りに古代ムー大陸と思われる大陸がある。
江戸時代につくられたものという説もありますが、そんなことはこの際どうでもいい。
問題は、「聖徳太子の地球儀」として現代まで残っている点にあります。
地球儀が日本に初めてやって来たのは、戦国時代を制した織田信長の頃です。
地球儀ということは、地球が丸いという「地動説」を知っていないと造れません。
コペルニクスが地動説を初めて発表したのは16世紀のポーランドであり、同じ16世紀の後半に織田信長に地球儀を献上したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、帰国後、書き記した「大日本史」の中で、“地球儀を見た織田信長が、地球が丸いことは理に適っていると即座に理解した、極めて知性の高い人物”と評しているのです。
ところが、聖徳太子は6世紀から7世紀の時代の人物ですから、1千年の時差がある。
キリスト教伝来の話といい、地球儀の話といい、事実と歴史の間に1千年の隔たりがある。
「はじめに」で述べましたように、西暦607年(推古15年)に聖徳太子が遣隋使として小野妹子を隋の皇帝・煬帝に送り、書状を持参させています。
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)
「日本」という国を「日出ずる処」とした聖徳太子は一体何者でしょうか。
日本列島という島国の飛鳥地方で生まれ育った彼が、なにゆえ、日本という国が「日出ずる処」、すなわち、東の果ての地であることを知っていたのでしょうか。
紀元前13世紀末から前9世紀にかけて地中海東部に栄えたフェニキア人が、彼らの国から東の方はフェニキア語で“Açu(日の出る国)”と呼んだのが“アジア”の語源であり、彼らの国から西の方を“Ereb(日の没する国)”と呼んだのがヨーロッパの語源であります。
ユーラシア大陸のことを知っていない限り、日本という地が東の果て、つまり、“Açu(日の出る国)”であることをわかるべくもなかった筈です。
ところが、彼は「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)という書簡を中国の皇帝に送った。
更に、「・・・・・・・・無恙云云」、つまり、「恙無しや、云々」と言っているのは何故でしょうか。
「恙(つつが)無しや、云々」とは、「ご機嫌如何でしょうか・・・」と言っているわけで、面識がある風情とも取られます。
隋は西暦581年の建国以来、高句麗と東突厥の連合軍による攻撃に苦しめられ続けていて、とりわけ東突厥の木杆の子・阿波(アバ)の存在に手を焼いていた。
隋は、西突厥可汗・達頭に突厥のシンボルである狼の旗を贈り、西突厥を味方に付けようとしたが、肝腎の東突厥の阿波は、母系社会の騎馬民族では本妻の子以外はなかなかチャンスに恵まれず、母親の身分が低いという理由で父のあとを継げず、一家を皆殺しにされ、西暦583年、西突厥の達頭のもとに身を寄せるという事件が起き、隋はあわてた。
阿波と達頭が手を結べば、西突厥はあまりにも強くなりすぎてしまう。
隋は仕方なく東突厥の阿波と西突厥の達頭との分断作戦を採り、遂に阿波の捕獲に成功したが、なぜか阿波は585年に無傷で釈放され、阿波と達頭は爾来中国史上から姿を消してしまうという事件が起きた。
その時の隋の皇帝が煬帝であります。
阿波(アバ)が物部守屋、達頭が司馬達等、すなわち、聖徳太子とするなら、話は符号します。
「・・・・・・・・無恙云云」、つまり、「ご機嫌如何でしょうか・・・」、つまり、「久しぶりです・・・」と言っているのは、どういう意味でしょうか。
「聖徳太子の地球儀」はその謎の解答ではないでしょうか。