第二章 救世観音(聖徳太子)の祟り

日本の国宝第一号は、京都・太秦の広隆寺にある弥勒菩薩像であります。
家臣の秦川勝が聖徳太子から弥勒菩薩像を賜った記念に建立したのが広隆寺であり、当時は太秦寺とも蜂岡寺とも言われていました。
聖徳太子は彫師としても超一級の技を持っていたらしく、多くの仏像を現代に残しており、国宝第一号の弥勒菩薩像もその一つと言われています。
法隆寺に隣接する中宮寺の夢殿に安置されている救世観音像は、等身大の聖徳太子をモデルにした作品で、作者は不詳ですが、この仏像を彫ってまもなく死んだと、「聖徳太子伝私記」は伝えています。
明治17年(1884年)。
東京大学の哲学科で教鞭を取っていたアーネスト・フランシスコ・フェノロサは、助教授の岡倉天心と共に中宮寺を強引に説得し、千年の禁を破り、晒布でぐるぐる巻きにして封じ込められていた救世観音像を公開した際に、“世界に比類なき仏像”と驚嘆した話は余りにも有名であります。
フェノロサによって見出されるまで千数百年の間、晒布ぐるぐる巻きの秘仏とされ、フェノロサが白布を解く時に寺僧達は悉く逃げ出したと伝えられているこの像は、怨念や祟りと関係があったものと思われます。
夢殿はなんの目的で作られ、救世観音はなんの目的でここに安置されたのでしょうか。
僧侶・行信が、西暦739年に聖徳太子を供養するため再建された法隆寺の横に東院伽藍(上宮王院‐中宮寺)を建て、そこに八角仏殿(夢殿)を建立したと通史は伝えています。
行信は呪詛術を行使する僧侶であったと言われており、八角殿はそもそも呪詛を行う場所であったようです。
“夢殿と救世観音は聖徳太子の祟りを鎮めるため作られた”
梅原猛氏は「隠された十字架」の中でこう述べています。
法隆寺再建の年次はわからないが、夢殿が建立された年次は明確であり、これが重要なヒントになる。
更に梅原猛氏は言います。
“西暦724年。
藤原不比等の娘・宮子が文武天皇との間で産んだ首(おびと)皇子が聖武天皇となり、不比等の四人の息子も重要な官職につき藤原全盛の世でしたが、737年にこの四人の息子が当時大流行した天然痘のため全員がほぼ同時に死んでしまった。
これは聖徳太子の祟り以外にないということで、翌々年739年に夢殿を建立し、太子の祟りを鎮めるべく救世観音を作ったのだ”
救世観音の頭と胸に釘が打ち込まれているのがその証である。
頭の後ろの光背は、通常は背中で支えるのが普通だが、救世観音はなんと頭に直接釘で打ち込まれているのです。
頭に釘が打ち込まれている仏像など聞いたことがない。
更に、胸の部分の十字の木組みの真ん中にも釘が打ち付けられている。
救世観音(聖徳太子)の祟りとは一体何なのでしょうか。