第十九章 国際都市・京都

聖徳太子が活躍した飛鳥時代とは、統一国家日本としての大和朝廷の黎明期だと考えられることは先に述べた通りであります。
現在の生駒連峰を挟んで、難波(大坂)と飛鳥が入れ替わり天皇の御所となっていたわけで、平城京はまったくの未開の地でありました。
つまり、聖徳太子にとって奈良の地はまったく無縁の地で、寧ろ、難波(大坂)や京都(当時は山城)の方に縁が深かったことは、聖徳太子ゆかりの古刹がこれらの地に多いことが物語っています。
弘法大師の西国八十八箇所巡礼は、聖徳太子ゆかりの二十八古刹が原点になっているぐらいで、第一番四天王寺、第二番大聖勝軍寺、第三番道明寺、第四番西琳寺、第五番野中寺、第六番叡福寺、第七番世尊寺、第八番橘寺、第九番定林寺、第十番金剛寺、第十一番飛鳥寺、第十二番向原寺、第十三番日向寺、第十四番法隆寺、第十五番中宮寺、第十六番法輪寺、第十七番法起寺、第十八番成福寺、第十九番達磨寺、第二十番信貴山朝護孫子寺、第二十一番平隆寺、第二十二番龍安寺、第二十三番大安寺、第二十四番広隆寺、第二十五番六角堂、第二十六番中山寺、第二十七番鶴林寺、第二十八番斑鳩寺といった具合に、大阪四天王寺を筆頭に、聖徳太子ゆかりの二十八古刹が生駒山を挟んで飛鳥の地から難波(大坂)の地に延びている一方で、西は播州まで、北は京都(山城)の広隆寺から大原の寂光院にまで及んでいます。
特に京都大原の寂光院は、平清盛の娘で第80代高倉天皇の中宮として安徳天皇を生んだ建礼門院徳子が尼となって余生を送った古刹として有名ですが、実は聖徳太子が父・用命天皇を菩提する為に建立したものです。
聖徳太子は奈良の地よりも、難波(大坂)や京都(山城)の地に縁が深かった人物であり、更に遡れば、播磨の国が聖徳太子と最も因縁深い地であったのです。
播洲には、正真正銘の四天王寺である鶴林寺(兵庫県加古川市)や斑鳩寺(兵庫県揖保郡鵤町)といった格式の高い寺があります。
大阪の四天王寺は、聖徳太子が蘇我馬子と一緒になって、物部守屋との戦の勝利を祈願して建立した寺であると伝えていますが、真相は、鶴林寺が勝利祈願を祈って建立した四天王寺であり、大阪の四天王寺の真実の名は荒陵寺(あらはかてら)であったらしい。
現在の大阪・天王寺の地名が、当時は荒れ果てた墓地であったことから、荒陵(あらはか)と呼ばれていたことからの寺名であったのです。
聖徳太子の縁の深い地から奈良は外れていた。
逆に言えば、聖徳太子が渡来人であることの証明であるかも知れません。
京都はまさに、日の没する国(Ereb)のイェルサレム(平安京)に対して、日の出る国(Açu)の平安京(イェルサレム)であったわけで、ユーラシア大陸の西の端と東の端の臍の地、つまり国際都市であったのです。