第十七章 平城京と平安京

京都を都とする平安京は、794年から1868年まで1074年続いたのに対して、奈良を都とする平城京は、710年から784まで74年しか続きませんでした。
その最大の原因は「道鏡事件」であることは疑いの余地がない。
このことは、先に述べた通りであり、天武王朝の平城京から天智王朝の平安京に呼び戻し現象が起きたわけです。
平城京から長岡京、更に、平安京に遷都した桓武天皇は天智天皇系であるからです。
我々日本人が日本の歴史を最初に学ぶのが、古都・平城京と平安京であり、延いては、古都・奈良と京都であるわけですが、その背景に骨肉の争いがあったことなど想いもよらなかったのです。
天智天皇と天武天皇は兄弟であり、兄の天智天皇の幼名は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、弟の天武天皇の幼名は大海人皇子(おおあまのおうじ)と、日本の公式歴史書である日本書紀に書かれてあります。
天智天皇は大津京(滋賀県大津)に都を置いた天皇でありますが、それまで奈良の飛鳥地方や大阪の難波宮に都があったのに、天智天皇はなぜ僻地の大津に都を開いたのか、このことに言及する歴史学者は殆どいませんでした。
天智天皇と天武天皇は実は種違いの兄弟であり、真相は天武天皇の方が年上であることを日本書紀はひた隠ししているのです。
その鍵を握るのが、この兄弟の産みの母親である第37代斎明天皇であります。
この天皇は重祚(ちょうそ‐二回天皇位に就くこと)した天皇であり、第35代皇極天皇でもあり、更には、第34代舒明天皇の后でもあった幼名・宝皇女(たからひめみこ)という皇女です。
天智天皇は、第34代舒明天皇と宝皇女(たからひめみこ)の間に生まれた子ですが、天武天皇は、宝皇女(たからひめみこ)が舒明天皇の后になる前に生んだ子であるのが真相であるわけです。
ではその父親は一体誰であったのか。
宝皇女(たからひめみこ)は、舒明天皇の后になる前に高向王(たかむくのおう)と呼ばれる親王と恋仲になり、漢皇子(あやのみこ)という皇子を産んだ、と日本書紀は仄めかします。
日本書紀の中でも、兄の天智天皇の年齢と弟の天武天皇の年齢が逆になっているという矛盾が生じているのは、天武天皇が宝皇女(たからひめみこ)と高向王(たかむくのおう)との間に生まれた漢皇子(あやのみこ)であることを示唆しているのです。
この高向王(たかむくのおう)という人物は謎が多く、用命天皇の子だと言われています。
用命天皇の子で最も有名なのが聖徳太子であります。
高向王(たかむくのおう)=聖徳太子とすれば、天武天皇は聖徳太子の子供だということになります。
京都の伏見にある天皇家の菩提寺・泉涌寺には、天智天皇系の位牌はすべて祀られているのに、天武天皇系の位牌は一切祀られていないのは何故でしょうか。