第十六章 日本の高祖

日本神道とは(原始)キリスト教の隠れ蓑であり、日本の歴史は西暦に基づいて創作されており、日本国家の核にある天皇家とは聖徳太子の存在を以って造られたものである。
推古天皇は聖徳太子の伯母と日本書紀は言うが、摂政だった聖徳太子が実質の大王(おおきみ)であり、推古女帝の夫であった可能性が高いのではないか。
天皇という称号が使われ出したのも推古天皇からであることは先に述べた通りで、推古天皇が即位すると同時に、聖徳太子が摂政、つまり、実質上の最高権力者になったのは、それなりの意味があった筈です。
用命天皇の皇太子であった聖徳太子ですから、用命天皇が崩御すれば、次の天皇に即位するのが決まりの筈なのに、用命天皇の妹の豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)、つまり、推古天皇が誕生した。
学校で学んだ歴史では、そう教えられてきましたが、どうもしっくり来ないわけです。
用命天皇が崩御した後、崇峻天皇が即位したのも解せない話であり、その崇峻天皇がすぐに蘇我一族に暗殺され、推古天皇が即位した。
崇峻天皇暗殺に聖徳太子が絡んでいたのではないかという説が、江戸時代までは実しやかに囁かれていたのも、火のないところに煙は立たない点からも、一笑に付すことはできません。
中国の歴史観では、まさに、ここで易姓革命が起こったことを匂わしているのではないでしょうか。
聖徳太子の父君の用命天皇の幼名は橘豊日(たちばなのとよひ)と言い、若い頃に妹の豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)を犯そうとした事件があります。
更に、聖徳太子の母君である穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)の弟である穴穂部皇子(あなほべのみこ)も、豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)を犯そうとする事件があります。
豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)とは、相当な美形であったことを窺わせる二つの事件でありますが、ただ美形であったが故のこととは思えないほど、当時、つまり、飛鳥時代とは、渡来人や帰化人が跳梁跋扈した時代であり、一僻地の倭国の大王(おおきみ)から、統一国家・大和朝廷の支配者としての天皇が誕生する時期であったのではないでしょうか。
その鍵を握っていたのが、豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)、後の推古天皇であり、実質の支配者は聖徳太子であったのではないでしょうか。
実質の支配者である聖徳太子が、では何故、天皇になれなかったのでしょうか。
それは聖徳太子が渡来人であったからではないか。
同じような話が「神武東征‐実体は神武東遷」であり、大国主命(おおくにぬしのみこと)の「国譲物語」であり、神武天皇(神日本磐余彦‐かむやまといわれひこ)が大和の伊須気依姫に婿入りし、大国主命(おおくにぬしのみこと)が須佐乃男命(すさのおのみこと)の娘・須勢理姫(すせりひめ)に婿入りして、大王(おおきみ)になった。
よそ者が地場の末子の娘に婿入りすることで、倭国の大王(おおきみ)になる。
地場の美形の娘・豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)、つまり、推古天皇と、よそ者の聖徳太子が一緒になって、一僻地の倭国を統一国家・大和朝廷にまで仕立てあげた日本の高祖であるように思えてなりません。