第十四章 日本神道=キリスト教

仏教伝来よりも、キリスト教伝来の方が早かったのに、キリスト教伝来の痕跡は日本の歴史から抹殺されてしまった。
日本の公式歴史書である「記紀」、つまり、古事記と日本書紀では、キリスト教の話は一切書かれていませんが、仏教伝来は欽明3年(西暦552年)‐元興寺縁起では欽明7年(西暦538年)とされている‐と明確に述べられています。
更に、仏教を日本に定着させた元祖こそが聖徳太子であると、我々現代日本人は学校で教えられてきた。
蘇我氏と物部氏の戦いは仏教派と神道派の争いであり、聖徳太子は仏教派である蘇我氏側について、物部守屋と戦い、戦勝祈願の為に四天王寺を建立した、と我々は実しやかに信じてきたのです。
ところが、大聖軍寺(大阪府八尾市太子堂町)には、物部守屋の墓があり、木造の物部守屋像が祀られているのですが、摩訶不思議なのは、その守屋像の真うしろに、聖徳太子自作と伝えられる太子像が立っているのです。
物部とは「穴穂部」を代名詞としていて、聖徳太子の生母の名は「穴穂部間人皇女」であったことは先に述べた通りであり、聖徳太子は物部氏とも血縁関係にあったことは明白であります。
「仏教」対「神道」とは、実は「仏教」対「キリスト教」にあった。
物部氏は日本神道派と言われてきたが、実はキリスト教を信仰していたのではないか。
一方、聖徳太子の父君である用命天皇は、仏教推進派であり、蘇我氏の血を引いています。
聖徳太子の父側は仏教派、母側はキリスト教派。
聖徳太子は実に複雑怪奇な立場にあったわけです。
それでは何故、キリスト教派を表に出さず、神道派を出したのでしょうか。
キリスト教=日本神道を隠すためではなかったか。
天皇家の秘密がここに隠されているように思えてなりません。