第十三章 聖徳太子正体の鍵を握る人物

聖徳太子という人物の正体を推し測る上で重要な人間が二人います。
秦川勝と司馬達等であり、司馬達等については既に述べました。
司馬達等は渡来人であるのに対して、秦川勝は帰化人、つまり、先祖が渡来人であったわけです。
京都・太秦(うずまさ)にある木嶋(このしま)神社、通称、「蚕の社」の由来書によれば、紀元4世紀に百済から弓月君(ゆずきのきみ)という人物が、総勢1万数千人の民を率いて渡来したと述べられています。
由来書には、弓月君(ゆずきのきみ)は秦の始皇帝の末裔とも書かれてあり、6世紀後半、つまり、聖徳太子の頃に、秦酒公(さけきみ)が山城北部の葛野の地、つまり、現在の太秦(うずまさ)の地を賜ったとも述べられ、秦酒公(さけきみ)が朝廷に大量の絹織物を奏上したところ、「うずたかくつもられた」絹織物を見た帝が「うずまさ」の姓を与え、その地を太秦(うずまさ)と命名したとも述べられています。
「うずまさ」を「太秦」という字にしたのは、秦一族が秦の始皇帝の末裔であったからで、因みに、中国では「古代ローマ帝国」のことを「大秦」と書きます。
秦の始皇帝の先祖は漢民族ではなく、匈奴、つまり、西戎(せいじゅう)か、北狄(ほくてき)ではなかったかと言われていることと、「大秦」=「古代ローマ帝国」と関係があるのかも知れません。
北欧の国フィンランドという国名の語源は、フン族、つまり、匈奴であることから来ているように、匈奴はユーラシア大陸の西の果て、つまり、“Ereb(日の没する国)”にまで達していたわけであり、グレート・ブリテン島まで及んでいた古代ローマ帝国を「大秦」と訳する中国にとって、秦族(匈奴)は西洋人であったのでしょう。
「蚕の社」や、嘗て、広隆寺の境内にあったと言われ、今では東映京都撮影所の傍にある「大酒神社」の由来書にも書かれてあるように、秦川勝が信仰していた景教とは、原始キリスト教ネストリウス派のことであり、既に6世紀後半には、日本にキリスト教が伝来していたことを示唆しています。
原始キリスト教ネストリウス派のネストリウスとは、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルの司教の名で、ネストリウスはイエス・キリストの神格と人格の分離を強調したため、西暦431年司教の座を追われ、異端の宣告を受け、エジプトで客死したが、その教えは、東方ペルシャからインド、中国にまで及び、中国では景教と呼ばれました。
その景教を聖徳太子の時代の秦川勝が信仰していたわけですから、キリスト教は6世紀には既に伝来していたのは疑いの無い事実であります。
ところが、学校教育の「日本史」では、キリスト教の伝来は1549年(天文18年)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸して、薩摩藩主・島津貴久の許可の下で始まったと言われています。
教育界の単なる無知ゆえの所業なのか、それとも、何らかの意図があるのか、判断するのは、日本人ひとり一人の知性のレベルに掛かっているのではないでしょうか。