第十一章 聖書伝来

キリスト教の日本伝来の実態は、仏教の日本伝来よりも早く為されていましたが、日本の歴史上では、先章でもお話しましたように、1549年(天文18年)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸して、薩摩藩主・島津貴久の許可の下で始まったと言われています。
それは旧教(カトリック)の伝来であり、しかも、薩摩藩によって紹介された点に、隠された歴史を垣間見ることができます。
キリスト教が世界規模を誇る宗教になったのは、ローマ帝国の国教になったからであり、それまでのローマ帝国の一属国である僻地ユダヤから誕生したイエス・キリストの教えが、何故これほどまでの大乗的になり得たのか不思議に思われます。
イエス・キリストという言葉は、国教となったローマ帝国の国語ラテン語(古代ギリシャ語)であり、救世主イエスという意味でありますが、僻地ユダヤで使われていた言葉は古代ヘブライ語(古代アラム語)であり、イエスの本当の名前はインマニュエルでした。
イエス・キリストの物語を綴った新約聖書は紀元5世紀頃に、ローマ帝国の国語ラテン語(古代ギリシャ語)で書かれたから、「イエス・キリスト」になっただけであり、僻地ユダヤで使われていた言葉・古代ヘブライ語(古代アラム語)では「メサイア・インマニュエル」であったわけです。
メサイア・インマニュエルが十字架に架けられた後、十二使徒の一人ペテロが自責の念から、メサイア・インマニュエルの教えを真摯に後世の人々に伝えようとし、更にメサイア・インマニュエルの死後、ペテロと同じパリサイ人律法学者の一人だったパウロも、メサイア・インマニュエルの教えを伝えようとした、と新約聖書は語ります。
ペテロの布教活動の母体になったのをイェルサレム教団と言い、パウロの布教活動の母体になったのがアンティオキア教団と言います。
カトリックの総本山ローマバチカンはパウロが興したアンティオキア教団が発展したものであり、その特徴は、ユダヤ人以外の者にも門戸を開いた点にあります。
現在のシリアの一都市だったアンティオキアから、パウロが教えを広めたことから、アンティオキア教団と呼ばれるようになるのですが、シリアという場所は当時、ローマ帝国領内の重要な地であり、アンティオキアからローマ帝国全土に拡大していったのです。
パウロの採った開放策が功を奏して、アンティオキア教団がローマ帝国の国教になっていったのに反して、ペテロが興したイェルサレム教団は、イェルサレムという特殊性も加味して、ユダヤ人だけの宗教という形態を以後も守っていくことになります。
紀元69年にイェルサレムを首都とするユダヤという国が、ローマ帝国に滅ぼされ、ユダヤ人は以後1948年にイスラエル国家が再建されるまで、世界に離散していくことになり、彼らの移動する所には常にイェルサレム教団があり、中国では景教となっていきます。
聖徳太子の重臣であった秦川勝は景教徒であったわけですから、紀元6世紀には、既にキリスト教は日本に伝来していたのです。
キリスト教(景教)と共に、聖書が持ち込まれた可能性があれば、聖徳太子伝説がイエス・キリスト伝説に酷似している所以が明確になっていきます。