第十章 聖人伝説

キリスト教の日本伝来は、1549年(天文18年)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸して、薩摩藩主・島津貴久の許可の下で始まりました。
1517年、ドイツの神学校の教授マルチン・ルターは、新教プロテスタントを興し、その宗教改革運動は北部欧州に拡大しましたが、南部欧州ではその反動で旧教カトリック保護運動が起こります。
南部欧州の中心イスパニアの王侯貴族だったイグナティウス・ロヨラは、1534年ローマ教皇の許可を得てイエズス会を結成しました。
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは失われた北部欧州に取って代わるべき旧教カトリック流布の新天地を求め、東の果ての日本までやって来たわけです。
キリスト教の二大宗派であるカトリックとプロテスタントの違いは、聖書に対する決定的なスタンスの違いであると言っても過言ではありません。
カトリックは、聖書に書かれてあることよりも、祭祀、つまり、ローマバチカンの意向が絶対であるとするのに対し、プロテスタントは、飽くまで聖書に書かれてあることが絶対であるとしている点です。
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが1549年に日本にやって来た目的は、聖書絶対視からローマバチカン絶対視の摺り替え作業に過ぎなかったわけです。
イエズス会そのものの存在意義が、プロテスタントに対抗するスパイ行為にあったと言われている所以がこの点に隠されていたのです。
聖徳太子の誕生伝説が、イエス・キリストの誕生伝説に酷似しているのみならず、天然痘に罹った民を聖徳太子が抱き抱えることで癒した話なども、イエス・キリストの奇跡の一つとして聖書に同じように書かれています。
その窮め付きは、聖母マリアと穴穂部間人皇女であります。
両者ともに処女でありながら子供を産んだと伝えているわけですが、この表現の意図には、二つの可能性があると断言してもいいでしょう。
一つは、処女から産まれる人間など実在しなかった、つまり、聖徳太子やイエス・キリストなど実在しなかったという可能性。
一つは、マリアも穴穂部間人皇女も処女ではなかった、つまり、夫であるヨセフや用命天皇と交わってイエス・キリストや聖徳太子を産んだという可能性。
この二つの可能性しかあり得ず、では何故、処女から産まれたとしなければならなかったのかに問題の核心が絞られていく筈です。
聖徳太子もイエス・キリストも実は俗人であったにも拘わらず、聖人にする必要があったからではないでしょうか。
つまり、政治的配慮が為された結果であり、特に、祟りを極端に恐れる性癖を持つ日本人には、悪人や敵方であっても、死後は崇めるという風習があります。
聖徳太子の聖人伝説は、明治以降に造られたものであり、江戸時代の学者たちは、聖徳太子のことを扱き下ろしています。
聖徳太子一族の悲惨な最後は、当時の世相では彼らが受け入れられていなかったことの裏返しの事実ではなかったのでしょうか。
我々現代日本人が抱いている聖人・聖徳太子像は、やはり、幻想に過ぎなかったのです。