第一章 国家の夜明け

西暦574年。
聖徳太子は、父・用命天皇と母・穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)の第2子として生まれ、厩戸豊聡耳皇子(ウマヤドノトヨトミミノミコ)と名づけられました。
この時代を飛鳥時代と呼び、大陸からの渡来人・帰化人が中心になって発達した優れた文化が当時の日本にはあり、これを「飛鳥文化」と呼びます。
古墳文化・仏教文化といった日本の歴史の土台となる文化が栄えたのが飛鳥時代であり、都は難波や大津にあったこともありますが、概ね飛鳥地方の中を移っていました。
道路の整備がまだ完備されておらず、船の方が便利だったので、水上交通がこの時代の中心であったのに反して、東・西・南の三方を山に囲まれた飛鳥地方に、大和朝廷の根拠地は置かれたのです。
飛鳥(明日香)の西側に奈良と大阪の県境となる生駒山地があり、この山地の峠を越えて長い坂道を下れば難波の港に出る。
聖徳太子が送った遣隋使も、この峠越えの道を通って難波の港から船に乗って九州に向かいました。
大阪(オオサカ)と今では書きますが、昔は大坂と書いて「おおざか」と呼び、峠を越えてから難波の港に向かう長い「大きな坂」の意味であり、大坂(大阪)の“坂”とは生駒山のことであったのです。
西暦622年。
聖徳太子は49歳で亡くなりましたが、毒殺説が最も信憑性があり、それを裏付ける証拠は、追々、お話していきます。
西暦710年。
太子死亡の88年後、元明天皇が飛鳥より北の平城京に遷都しました。
平城京は道路整備が完備され、峠越えの道は使わなくなって行き、飛鳥を中心に新しい大陸文化によって、世の中の仕組みや内容が大きく変わり始めた時代であり、その先鞭をつけたのが聖徳太子です。
時代を遡って、西暦592年。
崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺され、聖徳太子の叔母の推古天皇が第33代の天皇になり、翌年、聖徳太子20歳の時、推古天皇は甥の聖徳太子を皇太子に立てて録摂政(マツリゴトフサネツカサド)となります。
西暦595年。
高句麗(今の北朝鮮)の僧・慧慈が仏教を携えて渡来。
西暦601年。
聖徳太子28歳の時に、斑鳩宮(イカルガノミヤ)を造営。
西暦603年。
聖徳太子30歳の時に、「冠位十二階」制定。
西暦604年。
聖徳太子31歳の時に、「十七条憲法」制定。
十七条憲法は、現在の憲法とは意味も内容も違い、大和朝廷の役人達に対する心構えを編めたものです。
この時代は国を築き上げる基礎固めの時でしたから、特に第一条の「和を以って貴しと為す」の意味が重要だったわけです。
“皆一緒に仲良くしなさい”というような簡単なものではなく、この頃の豪族達にはそれぞれの祖先があり、血の繋がっている者同士の結びつきがとても強かった氏姓社会であり、他の一族と力を合わせて「国造り」を目差すということは非常に難しい時代でした。
聖徳太子の「国造り」の基本は「公正」にあり、その考え方は仏教の大きな影響を受けていたのです。
後世の尊称として名付けられた聖徳太子という名は、悉達(シッダルタ)太子に准えられたという説があります。
悉達(シッダルタ)太子とは仏教を開いた釈迦のことであり、幼名がゴータマ・シッダルタだったからです。
僧・慧慈に仏教を学び、覚賀に儒教を学び、49年の生涯の中で実行した彼の多くの事柄の基本には仏教や儒教の心が強く生きています。
太平洋戦争敗戦以前の聖徳太子についての伝説は、史実と入り混じって神格化された内容で教えられ、戦争が終わってからその反動でいろいろ批判されたりしました。
明治から昭和20年の敗戦までの間に、当時の指導者(支配者)によって都合の好いように歴史が作り変えられてしまったのです。
戦後60年を過ぎた二十一世紀。
我々日本人は、国家の黎明期の聖徳太子の時代をもう一度洗い直してみることによって、来るべき新しい日本像を垣間見ることができるのではないでしょうか。