2.東京と大阪の文化

銀座は今でも東京で一番の繁華街である。
渋谷、新宿、池袋、六本木、赤坂、原宿、自由が丘、吉祥寺、恵比寿、裕天寺・・・は銀座の後を継いで、東京の代表的おしゃれな街へと発展していった街で、今は代官山が注目を浴びている。
まるでアメリカ文化を継承しているような発展ぶりである。
アメリカではニューヨークが一番の繁華街で、フィラデルフィア、シカゴ、ニューオリンズ、デトロイト、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、ヒューストン、アトランタがニューヨークの後を継いで発展してきた。
やはり広大な土地があったからだ。
アメリカの前の世界の中心であった大英帝国では、ロンドン、リバプールだけが代表的な繁華街でおさまっているのは、やはり狭い土地ゆえんだろう。
京都では四条河原町、祇園辺りだけだし、大阪でもキタの梅田、ミナミの灘波だけで、その後を継いで発展しそうな街は見うけられないのは、やはり狭い土地ゆえんだろう。
では、
銀座は一体いつから広大な東京一の繁華街になったのだろうか?
江戸時代の東京(江戸)の中心は神田から浅草にかけての地域で、総称して浅草界隈であった。
日本三大祭に京都の祇園祭、大阪の天神祭と並んで東京の神田祭が選ばれている所以がここにある。
浅草寺を中心にした浅草界隈から、江戸の文化は発展していった。
今で云う「宝くじ」は、江戸時代に「富くじ」として浅草寺境内で行われていたぐらい、浅草は江戸一の繁華街であった。
では一体いつ浅草から銀座に江戸(東京)の中心は変わっていったのだろうか?
明治以後だろうか?
いやそうではない。
関東大震災以後だから、1923年(大正12年)だ。
明治元年(慶応四年が江戸時代最後の年)が1868年だから、江戸が東京になってからも、半世紀以上、浅草が東京の中心であったわけだ。
関東大震災以前には、安藤広重の「東海道五十三次」の始点である江戸・日本橋で1673年(延宝元年)にはじまった呉服店越後屋が前身で後に「三井物産」になった三越百貨店が、松阪屋や松屋と共に銀座に出店したのも、関東大震災からの復興がきっかけだった。
鉄筋コンクリートビルの服部時計店(時計のセイコー社)しかなかった銀座一丁目に、三越百貨店、松阪屋、松屋の鉄筋コンクリートビルが一挙に立ち並び、和服姿ゆえ飛び降られず死んでいった女性店員から洋服姿の女性店員へと変わっていったのも関東大震災がきっかけで、東京が都市化していった。
現在でもニューヨークがアメリカの中心であり続けているが、大英帝国から独立する前の植民地時代や開拓時代には、ニューヨークではなく、ニューアムステルダムだった。
まるで、ニューヨーク=銀座で、ニューアムステルダム=浅草といった感じだ。
高度経済成長期以前(昭和30年代以前)生まれの日本人の記憶にはあるだろうエノケン(榎本健一)やロッパ(古川緑波)といったいっせいを風靡した「日本の喜劇王」は当初、浅草の国際劇場で活躍していたのに、関東大震災以後、銀座(日比谷)界隈にできた日本劇場や東京宝塚大劇場へと移っていったことが、東京の中心が浅草から銀座へ移った証明に他ならない。
それに連れて映画全盛時代を迎え、東京宝塚、つまり、「東京宝塚映画=東宝」が「東京映画(東映)」や「大阪映画(大映)」を抑えて日本一の映画会社へと発展してゆくのである。
東京の中心が銀座に移っていった機を利用して関西の阪急電鉄(梅田ー宝塚線)の創業者であり、商工大臣(現在の経済産業大臣)にまでなった小林一三が、兵庫県宝塚に宝塚大劇場をつくり宝塚歌劇団をつくってゆくわけだ。
まさに、
東京オリンピックおよび大阪万博まで、東京と大阪が日本の東西横綱大都市として繁栄していったのも、関東大震災からなのである。
まさに、
関東大震災以後、軌を一にして日本の中心都市へと発展してゆく東京の銀座、大阪の梅田は同じ文化を背景にしていたのである。