(その二十) 新しい経済メカニズム

拝金主義が高じてくると、どういう世の中になってくるのか。
価値基準を何でも、お金の額に変えて判断するようになってきます。
現在の我が国は、デフレ状態に陥って、要するにモノの値段がどんどん下がっています。
こういう状態になればなるほど、モノの価値が下がっているわけですから、モノを購入する手段であるお金の価値が反対に上がっていくのです。
お金というものは、本来、モノの交換手段として生まれたのであって、モノの価値を決めるのは、モノ自体に対する需要と供給のバランスに依るものでした。
市場というものは、飽くまでも、需要と供給が出会う場所であり、そこでのやり取りが、モノの価値を決めていたのです。
株式市場なども、株券というモノの交換市場であったわけですが、もう昔の株式投資と考えていたら大きな間違いです。
今や、そういった市場での需要・供給の原理原則は完全に崩れてしまったのです。
その原因は何かというと、お金という、モノの交換手段であったものが、モノそのものになってしまったからです。
金融商品と呼ばれているのは、その名の通り、お金が商品つまりモノであるのです。
しかし、お金を食べて生きて行くことは出来ません。
大自然には、食物連鎖という法則が厳然と働いています。
ライオンがシマウマを食べ、シマウマは草を食べ、草は死んだライオンやシムウマを食べて、自然は循環しているのです。
これは、すべての物質が保有するエネルギーの総量は不変で、その形態が変わるだけである、というエネルギー保存の法則に則しているのです。
わたしたちがモノを食べているのも、この食物連鎖という法則の下での行為であるのです。
ところが、そこにお金という交換手段が現れた。
人間の数が多い為に、物々交換が困難になった結果、新しい交換方法として貨幣が誕生したまでは、大自然も許容した。
しかし、この交換手段が大自然のモノの循環システムにまで侵入してくると、大自然は黙ってはいません。
ましてや、お金がモノの頂点に立ってしまった為に、モノの循環システムは完全に崩れてしまったのです。
世界経済のメカニズムは、お金がモノの頂点に立った1985年以来完全に変わってしまっているのに、我々はいまだに、景気、不景気と騒いでおるのです。
阿呆な政治家や役人は、いまだに、消費需要を促すとか、公共事業投資によって景気回復などと、間抜けなことを言っておるのです。
お金が、交換手段からモノに変わってしまったら、お金独自の流れが出来てしまうのは当然であります。
市場というのは、モノの流れが最も大きく、速い場所を意味しているのです。
今や、世界で最も大きくて流れの速い市場がお金というモノの市場であるのです。
およそ、1京円つまり10000兆円の市場で、他のモノを圧倒する大きさです。
世界のモノの市場の大きさは、すべてのモノを総じても、25兆ドル(3000兆円)です。
お金のモノの市場が10000兆円。
更に、金融商品ビジネスは、レバレッジと言って株式投資で空売り・空買いといった類のものですが、その100倍の額の流れ−これは仮想の流れですが−までつくってしまった。
そうしますと、モノの価値は、3000兆円:10000*100兆円=1:333になってしまったのです。
誰もが、モノよりお金を欲しがるわけで、最終的にはモノが流れなくなるでしょう。
その兆候が、デフレとして表れているのです。
いくら阿呆な政治家や行政が公共事業をしても、333分の1の、お金の価値としか、世界最大の市場は判断してくれないのです。
毎年30兆円の赤字国債を発行して金にしても、それを財務省主計局から各省に予算配分され、各省から日本国中にモノとして流れ出した時には、333分の1つまり1000億円にもならないのです。
1000億円売上の企業程度の効果しか無いのです。
行政官庁のことを省と呼びます。
この「省」の由来は、「為政者が自らをよく『省』み(かえりみ)、煩雑なことを『省』く(はぶく)ことによって、国民を『無事』ならしめること」から来ているのであります。
己たちの権力を維持する為に、煩雑な仕事を省くどころか、規制によって国民を抑えつけ、自らを省みることなく、天下りしておる省役人は、国民にとっては、急ぎ働きの盗人猛々しいとしか思えないのであります。
1985年以前の経済メカニズムであれば、デフレが高じればその後にはインフレがやって来るので、巷の書籍店では、近い将来インフレに転じ、ハイパーインフレが襲って来るなどと、世間を煽る本が出まわっているようです。
まさに、拝金主義も極まれりの感が致します。