次元が高い、次元が低いという話を、我々はよく聞く。
次元が多い、次元が少ないという話を、我々は聞いたことがない。
次元が大きい、次元が小さいという話も聞いたことがない。
つまり次元とは、質の問題を言っているわけで、量の問題を言っているわけではない。
ところが物理学や数学では、次元を量の問題として使用している。
一次元から三次元までは、縦や横や高さの程度つまり量の程度を表わし、更に四次元要因を時間として、時間も量の問題として扱っている。
数学とは、文字通り数の学問であり、量の問題を捉える学問だから、そうなったのだ。
しかし物理は量(数)の学問だけではなく、質の学問でもある筈。
学者というものが如何に厄介な生き物であるかがここにある。
中世の主観性重視の時代から、近代の客観性重視の時代に入り、先ず芸術面での客観志向がルネッサンスを生み、宗教面での客観志向が宗教革命を起こし、実生活面での客観志向が科学を発展させて現代に至った。
近代とは客観志向の時代であったわけで、言い換えれば量的追求の時代であったために、近代・現代科学者も量的探求ばかりに熱を上げ、何でも彼でも式や方程式で片づけようとする。
式や方程式で客観性を証明さえすれば、それが恰も真理であるかのように、人は信用する。
二十世紀までは、まさに科学による量(数式)の証明で以って真理を構築した時代だったと言っても過言ではない。
そういった時代背景の中で、量的時間が縦*横*高さの次に選ばれた。
数学や物理学も本来−ギリシャ哲学という学問の意味では−実生活に密着した学問として誕生したにも拘らず、近代になって机上だけの学問に成り下がってしまった。
専門化したと言えば聞こえはいいが、人間の本来性が怠惰なものである証明なのか、一般の人間の脳味噌では対応し切れなかった所為か、学問が実生活からどんどん乖離して行った結果、頭でっかちの昏々稚気の専門馬鹿の学者を粗製濫造してしまった。
その挙げ句の果てが相対性理論であり、時間をも量的問題として捉えてしまった結果が、四次元時空間の世界観である。
我々知性のある生き物としての人間の本来性を、もう一度見直してみる必要があるように思えて仕方がない。
その時のキーワードが、“量の世界観から質*量の世界観への回帰”である。
ギリシャ時代の学問は質*量の世界観であったのに、近代・現代の学問は量の世界観に成り下がった。
学校での勉強も量的追求に走り、質的追求ではなくなった結果、試験内容も量的試験つまり点数の多い者が優秀だという判断をするようになってしまった。
成績が好い子供とは、点数の多い子供という量的なものから、質*量の高い・低いで判断される世界観の時代に二十一世紀をしなければならない。
先ずは量的時間から脱却して、質的時間の世の中にすることだ。
次元の話は質的な話であって、縦*横*高さの話ではない。
つまり一次元やら、二次元やら、三次元やら、四次元やら、五次元・・・・と言った言葉を死語にすることであり、質の高い・低い話で充分だ。
よってここに、質*量の世界観の”新しい学問のすすめ”を提案するわけだ。