金持ちはますます肥え太り
貧乏はすっからかんになる
The rich get more
The poor lose everything

極貧の者だけである
罪のないのは
Only the destitute are innocent

金を貸すことはない
利息をつけて返す人には
金を与えてあげなさい
返すめどがまったくない人には
Do not give your money to one who repays with interest
Give your money to one who won’t repay at all

やさしい
ラクダが針の穴を通る方が
金持ち(富者)(Mammonist=拝金主義者)が神の王国に入るより
It is easier for camels to enter the eyes of a needle than for riches to enter the Kingdom of God

イエス・キリストはこの世の富(mammon)を徹底して否定した。
キリスト教でも「ウスラ(高利)」を禁止してきた。
「ウスラ(高利)」とはラテン語で「与える以上に受け取る」の意味であり、つまり、純粋な利子のことである。
旧約聖書の「出エジプト記」でも「彼から利子を取ってはいけない」とあるからだ。
ところが、12世紀以降、経済の飛躍的発展によって貨幣の重要性が増し、社会の変化の中でキリスト教も変革を迫られることになる。
そこで、旧約聖書「申命記」の記述を利用した。
「同胞には利子をつけて貸してはならないが、異邦人には利子をつけて貸してもよい」
旧約聖書中の同胞とはユダヤ人(ユダヤ教徒)のことである。
そこでキリスト教徒(異邦人)からユダヤ人は利子を取ってもよいことを利用して、キリスト教徒はユダヤ人に金融業の役目を押し付けた。
なぜなら、金融業(高利貸し業)はキリスト教徒にとっては軽蔑すべき職業だったからである。
ユダヤ人が高利貸しと同一視され、金の亡者の代名詞となった経緯には、キリスト教徒の都合があったわけだ。
だが、金儲けの欲望や営利主義の商業活動は、世界中、いつどこにでも存在したにも拘わらず、なぜ、近代資本主義は、よりによって禁欲を美徳とするキリスト教世界のヨーロッパで発展し、その結果、他の国よりも先進社会になっていったのだろうか。
ドイツの社会・経済学者であるマックス・ウエーバーがこの問いに対する回答を見出している。
彼の論によれば、
近代資本主義に必要な精神は、一攫千金を狙ったあぶく銭的金銭欲ではなく、営利のための営利の獲得をひたすら追及するという、言い換えれば、一種の禁欲的精神である。
宗教改革、とりわけ、スイスのジョン・カルバンの「予定説」がヨーロッパ・キリスト教世界の経済活動に大きな影響を与えた。
本来、彼らは資本主義を後押しするつもりはなく、現代社会にも当て嵌まるような、飽くまで、当時の社会的退廃を嘆き、キリスト教道徳の厳格な適用を目差した。
しかし、彼らの宗教的情熱が度を越し、結果的には、貪欲の大罪の純化された実践として近代資本主義を生み出したのである。
カルバンの「予定説」では、「救済される人とされない人は予め神によって決定されている」。
ドイツ人哲学者であるフリードリッヒ・ニーチェの「神は死んだ」という有名な台詞の背景にも同じ「予定説」精神があったからだ。
だが肝腎のイエス・キリストは生まれながらの差別など一切認めていない。
彼は男女の差別も一切許していない。
にも、拘わらず、ローマ・カトリックの中興の祖であるパウロは露骨に男女差別をしている。
「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そして、キリストの頭は神である」
「男が女のためにつくられたのではなく、女が男のためにつくられた」
(コリントの信徒への手紙11章3〜9)
更に最悪なのは、生まれながらに決定されている「予定説」の背景には、3000年前のインドでバラモン教・教義(ヴェーダ)として誕生した「カースト制度」と対になっている「輪廻転生説」が潜んでいることだ。
まさに、あらゆる宗教の正体がここに垣間見える。
イエスとキリスト教とはまるで別ものなのである。
また、白人のルーツがインド・アーリア系にある所以がここにあり、欧米社会のほとんどの言語のルーツであるラテン語も実はインド梵語(サンスクリット語)にあることの所以でもある。
人は神の決定を知ることもできず、ローマ・カトリックのように善行の積み重ねや教会の秘蹟(洗礼および聖餐=サクラメント(sacrament))によって救済の保証を得ることもできない、そんな人々が救済を確信することのできる唯一の手段は、神に選ばれた人物にふさわしい生活の実践、特に、職業的(この世的)成功であった。
カルバン主義の考えでは、人間はただ神の栄光を賛美するために地上に存在する。
神に選ばれた人間は神の栄光を地上で表すことが求められ、またそれが可能であるように予め定められている。
世俗的(この世的成功の)職業は、そのために神によって与えられた手段である。
従而、休みなき労働は神への賛美、その成功は神に選ばれた人間であることの証明を意味する、「職業召命観」に他ならなかった。
そしてこれは、いわば修道士のような禁欲的生活を世俗社会内で営む、いわゆる、「世俗内的禁欲」に他ならなかった。
現代欧米社会において、お金持ちが寄付行為をする習慣はこの精神から来ていて、このような厳しい生活倫理にあって、この世の富(mammon)は無意味なものであった。
現代日本社会において、あぶく銭的お金持ちが厚顔無恥にもテレビなどに登場して、単に占い行為で儲けただけにも拘わらず、30億円のダイアモンドを自慢するのは、欧米資本主義キリスト教社会では許し難い蛮行に見えるだろう。
しかし一方で、労働の結果としての富の蓄積は彼らにとっては神の恩寵の証でもあった。
とは言え、得た富で欲望を満たすことは、占いで儲けた日本人占い師と同じ罪に他ならないから、それは更なる営利活動へと再投資され、ビル・ゲイツのような超大金持ちが誕生したのも事実だ。
こうして資本は拡大再生産されることになる。
こうして成立した禁欲的労働態度が、キリスト教倫理を形骸化し、形式のみが残り、遂に、「資本主義の精神」が彼らの世界で誕生したのである。
まさに、現代日本社会にはびこる大金持ちとは似ても似つかない精神が欧米資本主義社会には存在することを、現代日本人は決して忘れてはならない。