“生は好くて、死は悪い”と思い込むようになり、挙げ句の果てに、“オスは好くて、メスは悪い”、“善は好くて、悪は悪い”、“強は好くて、弱は悪い”、“賢は好くて、愚は悪い”、“富は好くて、貧は悪い”、“幸福は好くて、不幸は悪い”、“天国は好くて、地獄は悪い”・・・“健康は好くて、病気は悪い”、“神は好くて、悪魔は悪い”・・・といった手前勝手な、好いとこ取りの考え方を疑いもせずに信じ込み、延いては、“既知の過ぎ去った過去は好くて、未知の未だ来ぬ未来は悪いこと”と無意識下で信じ込んでいる結果、過去を悔やみ、未来を取り越し苦労する四苦八苦の人生に喘いでいる、我々人間である。
人生最後の結末である“死”を悪いことと無意識下で信じ込み、誕生と同時にその“死”に向かって悲壮な行進をする人生とは一体何なのか。
逆に言えば、そんな人生だから刹那的に生きざるを得ないと御託を並べる輩が続出する現代社会。
しかし、いくら刹那的に生きても最後の結末が地獄では、純粋に刹那を楽しむことはできない。
“楽しかったらいいじゃないか!”と御託を並べる頑迷な人でも内心は忸怩たる思いの筈。
やはり、“終わり(死)が悪ければ、すべて(人生)悪し”の筈。
やはり、“終わり(死)が好ければ、すべて(人生)好し”の筈。
侍の時代に、打ち首獄門という刑と、切腹介錯という刑があった。
打ち首獄門も切腹介錯も共に首を刎ねられる死刑に変わりないが、本質は全く逆である。
打首獄門は不名誉な他殺。
切腹介錯は名誉な自殺。
切腹介錯では殆どの場合が、腹に刃先を入れる前に介錯人が首を刎ねていたらしく、腹切りの痛みを経験しない前に死んでいたが、自分の命は自分で絶つ権利を有した必然性の死を与えられる名誉な死であった。
打ち首獄門では命を絶つ権利は与えておらず、予期しない内に首を刎ねられてしまう、つまり、偶然性の死を与えられる不名誉な死であった。
自分の命は自分で絶つ権利を有する必然性の死こそ名誉な死に他ならない。
自分の命を自分で絶つ権利を有しない偶然性の死こそ不名誉な死に他ならない。
名誉な死は、名誉な生に繋がる。
自分の命は自分で絶つ権利を有するからこそ、自分で切り開くことができる充実した人生を送ることができるのである。
自分の命を自分で絶つ権利を有しないからこそ、他人に依存する不満だらけの人生を送る破目に陥るのである。
四苦八苦の人生(この世的であるが)を送るか、四楽八楽の人生(この世的であるが)を送るか。
自分の命は自分で絶つ権利(切り札)を持った人生こそ、四苦八苦の全く無い無敵の人生に他ならない。
“切り札(スペードのエース)”は最後まで切らないのが、“切り札(スペードのエース)”の“切り札(スペードのエース)”たる所以であることは言うまでもない。