(その六)

カイロは現代エジプトの首都であるが、古代エジプトでは、ギザと呼ばれ、古代エジプト王国の一時期の首都に過ぎなかった。
世界有数の大河の一つである悠久のナイル川が、カイロで二つの川に分かれて地中海に流れ出るところに、クレオパトラが女王として君臨していた古都アレキサンドリアがある。
一方、ナイル川の源流は二箇所あって、青ナイルと白ナイルの二本の川がスーダンの首都ハルツームで合流してカイロまで一本のナイル川として流れている。
その途中に、テーベという古代都市がある。古代エジプト文明の一首都であり、モーゼの出エジプト記の舞台だ。
ナイル川東岸、地中海から約800km南方に位置する。上エジプト4番目の都市であり、現地では「ワセト」(Waset)と呼ばれた(「ワセト」は「都市」と同義)。
古代ギリシャ時代のポリス(都市国家)と同じであり、古代ローマ帝国も都市国家の一つから世界大帝国までのし上がったのである。
ローマ帝国皇帝、ジュリアス・シーザーがアレキサンドリアの女王クレオパトラに唆されたのも、当時は、ローマとアレキサンドリアが隣国の感覚であったからだ。
「テーベ」は東岸を意味する「タ・アペト」との音の類似により、ギリシャ人がボイオティアの古都「テーバイ」と同じ呼称を与えたものという。
テーベ郊外にあるルクソールには、今でも多くの遺跡群があり、世界から集まる観光客の最大のスポットだ。
ルクソールとカルナックはテーベ郊外の二つの重要な神殿遺跡で、首都テーベおよび周辺街に名付けられたアラビア語の呼称である。
旧約聖書では「ノ・アモン」(アメン神の都市)と記録され、古代ギリシャの詩人ホメロスはイリアス(紀元前7世紀)でテーベの富と財宝について触れ、感嘆の言説を述べている。
まさに、聖書世界なのである。
一哉の実家はキリスト教信者でもなく、建前は仏教と言っても、法事上の方便だけで、しょせん、無神論者の家庭だから、一哉も聖書の存在を知っている程度の知識しかなく、内容などまったく知らなかったが、エジプトにやって来て、もっと学問をしておけばよかったと痛感した。
『史実が目の前に厳然とあるのに、実感が湧かない!』
『歴史を知っておけば、感慨深い想いができたのに!』
学校教育の歴史は、点でしか教えない。すなわち、記憶テストの試験勉強用の歴史として教えるから、殆どの学生は歴史に関心を持たなくなる。
記憶することは大量のエネルギーを費するから、苦痛感を伴う。
一哉もそんな歴史にはまったく関心を持てなかったから、理系の大学に進んだのだが、エジプトに来てみて、歴史の重さをまざまざと見せつけられると、本能的欲望から発する好奇心が湧きあがったのである。
本能欲から発する好奇心は子供の頃に旺盛なのに、大人になるに連れて好奇心は減退していく。
『やはり、歴史は好奇心旺盛な子供の頃に勉強すべきだった!』
一哉はこの瞬間(とき)、日本の学校教育に矛盾を感じたのである。
『一体いつ頃から、日本の教育制度は変ってしまったんだろう?』
太平洋戦争で日本がアメリカに負けて以後、アメリカの指導の下に日本は大きく変っていった。直近の日本の変貌の出来事だ。
だが、明治維新による日本の変貌の出来事から比べれば、直近の日本の変貌の出来事などたかが知れている。
更に遡れば、明治維新で崩れた700年に及ぶ武士による支配構造がはじまった鎌倉時代が、日本の変貌の時期であった。
それまでは、天皇を中心にした貴族階級による支配構造であったわけで、平安時代がその最期の時代である。
そして、天皇を中心にした貴族階級による支配構造の時代を、歴史では中世と呼ぶのに対して、天皇による独裁支配の時代を古代と呼ぶのである。
天皇による独裁支配の古代から、天皇を中心にした貴族階級による支配構造の中世の違いは、宗教勢力が力を持つようになった点にある。
貴族階級とは、まさに、宗教勢力がその原点にあったのだ。
大化の改新の功績を認められた祭司の中臣鎌足が、藤原姓をもらって以来、藤原家は日本の天皇家の外戚として、1918年に昭和天皇が妃として迎えたのを最後に、平成天皇が庶子、美智子妃を迎える1959年まで、なんと1314年も、宗教勢力が支配者側と与してきた紛れもない歴史的事実である。
宗教とは、決して、奴隷のためでもない、庶民のためでもない、人民のためでもない、国民のためでもない、被支配者のために誕生したものではないのだ。
まさに、日本の変貌の歴史だ。
古代エジプトの持つ圧倒的な歴史の重さに感動をした一哉だったが、それと同時に、人間社会の矛盾に気づかされたのである。
『自然社会には、こんな矛盾はあるのだろうか?』
『そのためのアフリカの旅だったはずだ!』
一哉は自然の宝庫であるアフリカを見てみたいと、その瞬間(とき)思った。
ホテルの部屋からナイル川が目の前に拡がっていた。
シェパードホテルという三星クラスのホテルに一哉は泊まっていたのだが、嘗ては一流のシェパードホテルも、サダト大統領の「オープンポリシー(政策)」という市場開放政策によって、西側諸国の資本が流入して、ヒルトン系やシェラトン系といった大資本がカイロの街を席捲していったため、今では二流ホテルの烙印を押されてしまったのである。
シェパードホテルの前には、ナイル川に横づけされた船台があり、遊覧船が見える。
ホテルのボーイに訊ねると、遊覧船でスーダンの首都であるハルツームまで船旅ができるらしい。
『よし、スーダンからタンザニア、ケニアと行けば、自然の宝庫のアフリカを見ることができそうだ!』
一哉はピラミッドの真の意味をはじめて理解できたような気がした。
古代エジプト王国の王ファラオの墓と喧伝されているピラミッドだが、まさに、権力の象徴であり、権力とはピラミッド型社会の象徴でもあったのだ。
権力構造は必ずピラミッド型組織、すなわち、ヒエラルキー型男性社会がベースになっているわけで、人間社会だけしかない構造であって、メス社会をベースにしている自然社会ではピラミッド(三角形)という概念などまったくないのである。
『自然社会は、どんな構造をベースにしているのだろう?』
一哉が目差している世界に自問した解答が待ち受けているのかもしれない。
一哉がカイロから乗った遊覧船は、スーダンの首都ハルツームとのちょうど中間の処にあるルクソールに差しかかり、ここで一泊することになった。
旧約聖書で一番圧巻の「出エジプト記」の舞台となった古都テーベの郊外にあったカルナック神殿がある。
今から3700年前にヘブライ人がカナンの地を自ら捨てて、新しい大地を探し求めた場所である。
地中海で海賊をしていたフェニキア系のペリシテ人に蹂躙され続けるのに嫌気をさしたヘブライ人は、カナンの地を自ら捨てたのである。
ペリシテ人こそ、パレスチナ人の祖先だ。
ヘブライ人こそ、イスラエル人の祖先だ。
まさに、イスラエル・パレスチナ問題は、この時からはじまっていたのである。
古都テーベや、ルクソール、カルナック神殿などが観光のスポットになっているが、一哉は遊覧船の船長の薦めで、ゴセンという町の遺跡を見学することにした。
ゴセンという町の遺跡はルクソールからさほど遠くないなだらかな丘陵地にあり、ルクソールが水の恵みがあるナイル川湖畔にあるのに対して、井戸から水を汲み出すしかない砂漠の中のオアシスのようだ。
目と鼻の先程度しかない二つの土地でありながら、農耕生活をするエジプト人と放牧生活をするヘブライ人の環境の違いをまざまざと見せつけていた。
なぜヘブライ人が3700年前にカナンの地を自ら捨てて、エジプトにやって来たのか?この謎を解く鍵がゴセンの町にあったからだ。
エジプトにやって来たヘブライ人たちに対して、当時のエジプトの王(ファラオ)は寛大だった。
ヘブライ人たちは羊を飼育して暮らしの糧にする牧畜生活の慣習であったのに対して、古代エジプトの暮らしの基盤にあったのは、ナイルの恵みである豊富な水による農耕生活だった。
王(ファラオ)は、牧畜に適した場所であるゴセンにヘブライ人たちが居を構えることを許したのである。
そして、400年の間、エジプト人とヘブライ人は共存していた。
ところが、当時のエジプト王朝に偶像崇拝の信仰が蔓延り、王(ファラオ)が自らの権力を示威するための巨大建造物をつくりはじめるようになった。
ピラミッドはまさに、その象徴だったのである。
古代において、既に、権力と宗教がグルになる前触れが既にあったわけだ。
巨大建造物をつくるには、膨大な労働力が要る。
400年前にカナンの地から移住してきたヘブライ人の数は知れていたが、その後、自由な牧畜生活をしてきた彼らの人口は膨大に膨れあがっていた。
その事に注目した王(ファラオ)が、彼らを奴隷にすることにしたのは、当然の帰結だ。
牧畜生活をするヘブライ人社会は共同体社会であり、ピラミッド型組織で構成される国家の概念がないのに対して、農耕生活をするエジプト人社会は中央集権国家の概念が既にあった。農耕型社会には蓄積の概念があったからである。
出エジプトを果してカナンの地に戻ったヘブライ人たちが、その後、300年の歳月を経て、ダビデ、ソロモンという王によって中央集権国家を形成していったのも必然の帰結であった。
ピラミッド型組織で構成される中央集権社会と、組織化されていない共同体社会が殺し合いをしたら、組織化された軍隊を持つ方が勝つのは自明の理である。
日本の戦国時代の寵児として颯爽と登場した織田信長は、この自明の理を理解していた。
戦においては、武田信玄や上杉謙信の方が長けていても、所詮は、足軽兵は農民であり、農閑期しか戦はできないのに対して、織田信長の軍隊はすべて傭兵だから、年柄年中、戦ができる。
まさに、組織化されているプロ軍団と、組織化されていない素人軍団が戦ったら勝つのはどちらか自明の理である。
だが、戦の勝者とは一体誰なのか?足軽兵なのか?傭兵なのか?
戦に勝った大将は戦利を得、戦に負けた大将は首を刎ねられるが、戦に勝っても負けても、大量の死者が出るのは足軽兵であり、傭兵である。
すなわち、戦の勝者とは勝軍の大将とその幹部、つまり、支配者階級だけなのである。
被支配者階級にとっては、戦自体が苦痛に過ぎないのである。
まさに、戦争は勝利した国と敗北した国とが生まれるのではなく、勝利した国の支配者階級だけが勝利するのであって、被支配者階級にとっては、自国が勝利しようが、敗北しようが、結局は、犠牲者なのである。
圧倒的多数を占める人間にとっては、戦争そのものが不幸な出来事に過ぎないことを、人類はもういい加減理解しなければならない。
一哉は、人類が築いてきた歴史の矛盾を呈する古代エジプト文明を肌で感じながらも、ナイル川という自然の雄大さに触れつつ、スーダン、ケニア、タンザニアへの旅に想いを馳せるのだった。
歴史の矛盾を呈する古代エジプト文明を横目で見ながら、自然社会の圧倒的パワーの中で生きている世界へ誘われている気分に否応なしになっていく。
自然社会にとって人間社会などサハラ砂漠の一粒の砂に過ぎないほど微小なものであることは、阪神大震災の際に痛感していた。
人間社会にとっての阪神大震災は、平成7年1月17日午前5時45分に発生したのだが、一哉の家で飼っていたセキセイインコという小鳥にとっては、前日1月16日午後6時に阪神大震災は発生していたのだ。
一哉が、異常なぐらい鳴き叫ぶ小鳥の意図を理解できたのは、月17日午前5時45分を過ぎてからだった。
日本社会の知性の粋を極めた東大地震研究所など、小鳥の危険予知センサーに遠く及ばないのである。
まさに、自然社会にとって人間社会などサハラ砂漠の一粒の砂に過ぎないほど微小なものである証のような事件だった。
『さあ、もうそろそろ、砂漠のライオンがいたというスーダンに入っていく』
自然の匂いがナイルの水からも感じられる気がした一哉だった。