(その三)

一哉が西田と再会したのは、お互いに大学に進学した東京においてであったが、何ともいえない後味の悪いものであった。
西田が東京の大学に進学したことを聞いた一哉は、西田の実家に電話を入れ、母親から東京の連絡先を聞き、自分から連絡をした。
丸一日、渋谷で会ったが、彼は常によそよそしく、嘗ての小学校時代の自信に満ちた西田祝和ではなかった。
「また会おうな!」
井頭線の渋谷駅と東横線の渋谷駅との連絡通路での別れ際に、一哉がかけた言葉に、振り向きもせずに背中で相槌を打った西田が、最後の姿となった。
西田から一哉に連絡を取ってくることはその後も決してなかった。
4年振りの再会を喜んだのは一哉だけで、西田にとっては悪夢の再開のようなものであったのだろう。
それほどに、小学校までと、中学校以降で天国と地獄の差を経験するのが早熟の人生の宿命で、こんな早熟な不幸な少年の人生を演出した小学校の担任の行旨先生の罪は極めて重い。
子供の頃に神童ともてはやされた人間は悲惨な結末で終わるのが宿命であり、若くして死ぬのがその証左だ。
逆に大器晩成型の人間は、まったく平凡な子供の頃を送るのが宿命であり、大人になると共に、その片鱗を発揮しはじめ、高齢になればなるほど巨星へと成長していくものである。
子供の頃の人生が平凡であることが、宇宙の法則からも自然現象であり、子供の頃の非凡な人生は、反自然現象であることを、世の親たちは理解しなければならない。
西田が東京で進学したのは神道系の大学だった。
神社の宮司や権宮司関係の子息が進む特殊な大学で、もちろん、西田の進学した動機とはかけ離れていたことは、一哉にも理解できた。
ただ、東京の大学で合格できるなら何処でもよかったのだろう。
一方、一哉の進学した大学は、誰もが認める私立大学の雄だっただけに、西田にとって、一哉との再会は、高校進学の時の屈辱の繰り返しに過ぎなかったのだろう。
だから、一哉から連絡することも二度となかった。
『西田にとっての人生は、小学校までだったのだろうか?』
渋谷での別れ際に一哉の脳裏に浮かんだ、西田の思い出を語る最後の独り言の心の呟きだった。
・・・・・・・・・・・。
「もしもし、竹園君?石原ですが・・・」
「石原?もうし訳ありませんが、何処の石原さんでしょうか?」
唐突な電話に一哉は奇妙な応対をしてしまった。
「ああ、申し訳ありません。小学校の時のクラスメートの石原文春ですが、憶えておられますか?」
一哉は「石原稔」という名前を一瞬思い出した。
「石原稔君?」
「ああ、ごめん、ごめん、寺の住職を継いで、今は石原文春ですが、石原稔です」
同級生が還暦を迎えた機会に催す、世間でよくある同窓会の誘いだったのである。
同窓会に参加することに違和感を以前から持っていた一哉は、取りあえず、行旨先生の電話番号を聞くだけに止め、石原との電話を切った。
同窓会に参加するのは、過去に生きている連中ばかりで、逆に言えば、『今、ここ』を生き切ることが出来ず、過去の郷愁の想いに駆られている、いわば、肉体は生けども、精神は死んでいる連中だと思っていたからだ。
『だが、行旨先生には会ってみたい・・・』
石原の電話から3ヶ月後の12月21日の同窓会で、田中一郎の歯に衣着せない行旨先生への発言によって、およそ半世紀も持ち続けてきた疑問の答えを知ることなど思いも寄らないで、一哉は行旨先生への憧憬の幻想を抱き続けていた。
「もしもし、行旨先生ですか?」
「僕は小学校の時にお世話になった竹園一哉ですが・・・」
石原から聞いた電話番号に一哉はかけてみた。
「まあ!竹園君?」
30分も話をしただろうか、その会話の中で、一哉は無償に行旨先生に会いたくなり、「先生の家にお伺いしていいでしょうか?」と大した意図もなく言ってしまったのだが、行旨先生の返事はまったく予想に反したものだった。
「竹園君の電話番号教えてくれる?先生の方から連絡するから・・・」
意図のわからない行旨先生の対応に、頭をかしげながらも、一哉は自分の電話番号を伝えた。
だが、行旨先生からの電話はその後一度もなく、12月21日の同窓会で会うことになったのである。
駅前のガラス屋を継いだ田中一郎が開口一番、行旨先生にジャブを繰り出した。
「行旨先生は、西田をなんであんなに贔屓にしたんですか?」
当人にずばり訊いたのである。
「西田君は転校生だったから、不憫に思って・・・」
困惑した表情の行旨先生は、何を思ったか話題を変えようとした。
「そう言えば、小山太一君が、家までやって来てね・・・」
同窓会で集まった二十数人の嘗ての教え子たちの前で、行旨先生は話をはじめた。
小山太一。
小学校時代のワルの生徒の一人だった。
「半日以上、先生の家に居すわってね・・・結局、お金の無心だったのね・・・」
田中一郎が訊いた。
「いったい小山はいくら無心したのですか?」
「何も言わないから、3000円のお金を封筒に入れて手渡したの・・・・そしたら、小山君、何も言わずに帰っていったわ」
話を聞いていた一哉は、何とも言えない怒りと空しさを感じた。
『そうか!俺は小山と同じ類と思われたのだ!』
『だから、俺に家に来られるのを避けるために、あんなことを言ったのだ!』
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『何かおかしい?』
石原の話では、出来のいい生徒トップ3の西田祝和、大林源一、井出洋は、石原の同窓会案内にも返事すらなかったらしい。
そしてそれぞれの実家からの話では、大林源一と井出洋は既に他界、西田祝和は一人息子であったため、実家すら消滅していて、本人は行方不明状態だった。
小学校の同窓会開催の案内書が、以後毎年、石原から送られてきたが、一哉も欠席の返事すら出さないようになった。
だが、『何かおかしい?』と人間社会に疑問を抱けば抱くほど、一哉の人間力は増強され、自身も明確な自覚を持っていた。
大器晩成型の人間なら必ず経験するのが、年を重ねるに連れて増す、自信の積みあげ成果の自覚であるのに比して、年を重ねるに連れて増す、自信の消滅影響を自覚する早熟型の人間が、若死するのは自然の摂理なのかもしれない。
早熟型の典型であるモーツアルトの35年間の人生で、天国のような人生を送ったのは、精々、15才までで、残りの人生は悲惨なものであったから、35年で閉じたのだろう。
一哉は思った。
『西田祝和、大林源一、井出洋・・・彼らはモーツアルトのミニチュア版のような人生だったのだろう・・・』
4年ぶりの西田との再会で後味の悪い経験をした一哉の東京での大学生活も、それまでと一変したものとなっていった。
大学四年生になった頃には、『こんな生活はもうごめんだ!はやく自立したい!』と思うようになっていった一哉だが、周りの大学生たちはまったく正反対の反応だった。
『ああ!もうこんな天国の暮らしもあともう少しか・・・社会人になったら厳しい生活が待ち受けているのだろうなぁ!』
こんな連中は、就職活動がはじまる四年生になると、それまでの大学生活など忘却したかのような姿勢に変わっていく。
ロングヘアーで髭も伸び放題でも平気でいたのに、会社訪問をしはじめるとまるで別人になったように小綺麗になる。
後輩に学生運動をしている杉山憲一という奴がいたが、彼の変節ぶりを見ていると、反吐が出る思いでいっぱいだった。
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「はあ!はあ!・・・竹園先輩、かくまってください!」
息を切らした杉山が、一哉の下宿先に飛び込んできた。
「一体どうしたんだ!」
「警察に追われているんです!」
杉山の話を聞くと、学生運動の集会に警察が乱入してきて、彼は必死の思いで逃げてきたらしい。
「竹園先輩、どう思いますか?世の中間違っていませんか?」
純粋な想いで学生運動に参加しているように一見思われる杉山に対して、一哉はまったく違う反応を示した。
「杉山!お前、実家から仕送りしてもらっているんだろう?」
「それとも、アルバイトしながらの苦学生なのか?どっちなんだ?」
親のスネをかじって生きている半人前の人間が、世の中にモノ申す資格などまだないというのが、野生の常識なのである。
「俺だって、世の中で不条理が罷り通っていることは知っているが、まだ俺たち学生は自立できていない半人前の人間だ!」
「だから、今は一所懸命勉強をして、将来、世の中の役に立てるような人間を目差すのが本当だろう?」
しかし、杉山は一哉の忠告も聞かずに、その後も学生運動を続けた。
ところが、杉山が四年生になると、ご多聞に洩れず、小綺麗な学生に変わっていった。
「だって就職試験に長髪では不合格になるでしょう!」
まさに、「いちご白書をもう一度」という歌そのものだった。

いつか君と行った映画がまた来る

授業を抜け出して二人で出かけた

哀しい場面では涙ぐんでた

素直な横顔が今も恋しい

雨に破れかけた街角のポスターに

過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる

君もみるだろうか「いちご白書」を

二人だけのメモリー

どこかでもう一度


僕は無精ヒゲと髪をのばして

学生集会にも時々出かけた

就職が決まって髪を切ってきた時

もう若くないさと

君に言い訳したね

君もみるだろうか「いちご白書」を

二人だけのメモリー

どこかでもう一度

無事就職を決めた杉山は、同級生の賀来の高校時代の彼女で日本航空の国際線スチュアーデスをしていた女性を横取りして、学生運動の頃の小汚さから、小綺麗な身なりに一気に変節していった。
『何かおかしい?』
『何が二人だけのメモリーだ!』
『親のスネをかじって生きる学生生活なんてもうごめんだ!』
一哉の人生が大きく変わっていく瞬間だった。
圧倒的な体力と学力を発揮した中学時代の一哉が、区内ナンバー1の高校への進学を拒否して、隣の区のナンバー1の高校に進学したのには理由があった。
野生の為せる業と言えばそれまでだが、その理由は、後日述べることにしよう。
一哉が進学した東京の大学は私立大学の雄だったが、彼の高校二年生までの学力からすれば、決して満足できるものではなかった。
高校入学した一哉に大きく影響を与えた生徒がいた。
小林二朗。
東京大学を現役で合格した秀才だ。
高校一年生のときから圧倒的な成績だった小林は、吹奏楽部に所属していつもトランペットを吹いている、決してガリ勉風の学生ではなく、むしろ、のんびり学生だった。
小林に興味を惹かれた一哉は、彼を目標に、中学時代とはうって変わって、猛烈に勉強をした。
一哉の三才上の兄、駿(はやし)が、そんな弟の姿を心配して、こんなことを言ったことがある。
「一哉、今ごろからそんなに勉強していたら、受験を控える三年になった頃には息切れするぞ!」
兄の駿(はやし)は大学受験で大いに苦労した経験があったからだ。
一哉は大学受験のために猛勉強していたのではなく、小林に少しでも近づくために努力していただけである。
いくら成績がよくてもガリ勉などまったく興味が湧かないが、余裕酌々で他の追随を許さない小林の姿に憧れていたのは、これもまた野生の所産だ。
弱肉強食の自然淘汰社会では、強さが生き残りの最大要素だ。
一哉の野生は、強さに対する渇望であり、勉強における成績も強さの表現方法の一つだと捉えていた節がある。
中学二年生の時に、腕力に強さの魅力を感じ、暴力をふるい出したのも、その一環だったかもしれない。
そのことを如実に証している出来事があった。
高校二年も半ばに入った10月に校内で実力テストが実施された。
希望すれば誰でも参加できる、まさに、実力のみが試される試験だ。
さすがに一年生で参加する者は誰もいなかったが、二年生は全生徒数450名の中、自信のある150名が参加した。
三年生は450名全員参加が義務づけられ、そして、卒業した浪人生も150名参加して、総勢750名で競う、文字通り実力勝負のテストで、一哉も参加したのは言うまでもない。
実力テストの結果は衝撃的だった。
数学、英語、国語、理科、社会、それぞれ、200点の五科目1000点満点で競われるのだが、余りに難しいテストで、それぞれの科目で半分の100点を取れるだけでも上出来なのである。
現に、試験結果では、1000点満点の半分の500点を獲得できた生徒は、750人中50人もいなかった。
その中で、二番の浪人生が700点も取れなかったのに、二年生の小林二朗が830点を獲得して段トツのトップだったのである。
そこで一哉の猛勉強ぶりが奏功した。
656点を獲得して、750人中、堂々11番の成績をあげたのだが、本人は、小林との174点という決定的な差にショックを受け、少なくとも、50点以内の差にまで持っていかなければならないと、早くも、次の実力テストに想いを馳せているのだった。
ところが、そんな一哉の想いに水をかけるような出来事が起った。
担任の江本先生が一哉を職員室に呼んだのである。
「竹園君、今回の実力テストで、君は二年生では小林君に次いで2番目、三年生、浪人生を合わせた全体でも11番目の成績をあげたのは称賛に値する・・・小林君は、灘高校受験に失敗して当高に入学してきたのだが、東京大学を目差しているとはっきり名言している・・・ところで、君は東京大学を目差すつもりはあるのかい?・・・今のままでは、京都大学は間違いなく合格できるが、東京大学はちょっと難しいんだが・・・」
一哉の高校から京都大学へ進学する生徒はかなりの数いるが、東京大学となるとほとんどいない。
小林と一哉の二人が東京大学に現役で合格できたら、進学校としてのネームバリューが上がることが江本先生の狙いだったが、一哉はここでも野生を見事に発揮して、江本先生の思惑をぶち壊したのである。
「江本先生!僕は東京大学どころか京都大学も受験しません。国立、公立大学は一切受験しません!」
事実、その時以降、一哉の姿勢が一気に変わっていった。
社会と国語の勉強どころか、授業もまともに受けなくなったのである。
学生服を着て登校するのが当たり前なのに、私服で通学するようになったし、ほとんど毎日遅刻する有様なのである。
担任の江本先生も、あの時の会話以来、一哉が激変していったのを承知していたため、暫くは一哉を放置していたが、さすがに我慢の緒が切れたらしい。
「竹園君、遅刻するのは容認するが、学生服だけは着てくるようにしてくれないか?」
懇願する態度の江本先生に、一哉は平然と言って退けたのである。
「それはできません!卒業するまで続けます!」
現に、一哉のこのスタイルは卒業するまで続けられた。
一哉にとっての実力試験は、大学受験のためではなく、まさに、人間が野生の実力をどれほど発揮できるかを計るバロメーターに過ぎなかったのである。
潜在能力を100%発揮できることが野生の証明であり、そういう点では、人間はもはや、野生を消滅させてしまった、自然社会の生きものではない。
猿類から猿人類を経て、原人、旧人、新人、そして、人間の祖先として進化してきた人類までは野生の生きものだったから、自己の潜在能力を100%発揮することができていた。
ところが、人間に進化した途端、潜在能力の30%も発揮できなくなったのである。その理由は明白だ。
知性を獲得した結果の、文字通り、反対給付だ。
知性が文明を生み、文明が宗教、科学を生んできたが、文明、宗教、科学は、しょせん、本質の反対給付にその正体があることを、人間は忘却してしまった。
いわば、文明や宗教、科学は実在に対する不在概念に過ぎないわけである。
地震や台風といった自然現象を、自然災害としか捉えられないのは、自己の潜在能力を100%発揮できない結果だ。
潜在能力を100%発揮する自然社会の生きものたちは、地震の発生を逸早く察知して事前に安全な地に自ら避難するのに、人間だけが地震発生直前まで気づかないため、大災害の憂目に遭うのである。
地震や台風に問題があるのではなく、人間の潜在能力の発揮度に問題があるわけで、野生を消滅させたのが、知性であり、文明であり、宗教であり、科学である。
特に科学の発展は、教育の成果に因るが、人間の潜在能力を甚だしく低下させた張本人が科学だ。
科学者とは、木ばかり見て、森が見えない専門馬鹿であり、その最たる者がノーベル賞受賞者たちである。
科学者の勲章であるノーベル賞を受賞した日本人の大半は、東京大学、京都大学出身者であり、彼らも大学受験に血眼になっていた連中だ。
篩に掛けられた進学校で大学受験に血眼になり、やっとの想いで、東京大学、京都大学に入学し、そこで、はたまた、篩に掛けられて、大学に残って研究してきた連中の中からノーベル賞受賞者が輩出される。
ノーベル賞とは、頭脳の優れた者に与えられる賞なのであり、しかも、頭脳が優れているとは、試験の成績がいいだけの、極めて、アンバランスな人間であって、自然社会の生きものが潜在能力を100%発揮できるのは自然(地球)とのバランスが取れているからだ。
アンバランスな人間の典型である科学者とは、いわゆる、専門馬鹿なのである。
一哉の野生は、この矛盾に気づいていた。
だから、東京大学、京都大学に進学することを拒否したのである。
欧米社会の大学とは、特殊技能を磨く専門学校のことであり、知性を養う最高学府ではないから、将来を約束されている豊かな家庭の子息が大学に進学することはほとんどなく、家庭的に恵まれず、ハングリー精神を養ってきた者たちが行く場所なのである。
アメリカの大学生の50%は黒人であり、25%はユダヤ系アメリカ人であるのは、将来を約束されていない劣悪な環境で生きている黒人や、2000年間に亘る差別を受けてきたユダヤ人が生きてゆくための特殊技能を磨くためである。
スポーツ選手、ミュージシャンに黒人、映画関係、ミュージシャン、医者、弁護士にユダヤ系アメリカ人が圧倒的に多い背景だ。
一哉は日本社会と欧米社会の違いなど知らなかったが、彼の野生が察知させたのであろう。
野生の能力が、科学を駆使した人間社会の能力を圧倒的に凌駕することを証明する例がある。
ある飼い犬がおしっこのでない病気になった。
獣医に診てもらっても原因が解らない。
ところがその頃から、この犬がおかしな行動に出た。
散歩に行くと、必死に土を食べるようになった。
そして、数日後、おしっこが普通に出るようになっていた。
科学や医学など何も知らない犬だが、土の中にある鉄分を体内に入れることで、おしっこの出ない病気を見事に治したのである。
科学よりも野性(自然)の方が圧倒的に知的なのである。
そういう意味では、科学は不完全な知性に過ぎず、野生こそが完全な知性なのである。
言い換えれば、潜在能力を100%発揮できる知性が完全な知性であり、潜在能力を100%発揮できない、文明、宗教、科学などは、しょせん、不完全な知性であって、文明、宗教、科学は、しょせん、実在、すなわち、野生(自然)に対する不在概念に過ぎない証明である。
一哉が高校の体育クラブに入らなかった理由は、高校生の三年間、夏休みになると、山篭りをして、野生を磨くことに専念したかったからである。
集団で行動する生き方になじめず、単独行動することに強さを感じたからであり、父親の勝次郎が一哉に期待していたことが、徐々に発揮され出した。
彼が二年生の時に山篭りした場所は、都会育ちの人間にとっては衝撃的な地であった。
野生そのものの世界だったからであり、ひとつ油断するだけで、人間が後生大事にしている命などふっ飛んでしまう世界だからだ。
野生を失わないように育てられた一哉といえども、しょせんは、都会育ちである。
目の前で、自分の命を虎視眈眈と狙っている野性の生きものがうごめいている様子など、生まれてこのかた見たこともない。
山篭りの経験によって、一哉の野生度は一段と増したのだが、ある意味で一哉が中学二年生の一年間、喧嘩ばかりするワルになっていたのも、野生度を増す一環だったかもしれない。本人が意識していたかは別問題である。
自然社会の生きものは、すべて、無意識で生きているのであって、野性とは完全無意識で生きることに通じる一方、完全意識して生きるのが、人間に本来与えられた恩恵なのかもしれない。
大学に進学した一哉を待ち受けていたものは、楽しい学生生活ではなかった。
一哉が大学二年生の時に、更に、彼の野生度を増す一連の事件が起ったのである。
不摂生の生活が原因で、腹膜炎を起こした。
幸い、九死に一生を得たが、更に、追い打ちを掛けられるように、前期試験のカンニング事件が発覚、停学処分を受ける窮地に陥ったのである。
人生何が幸いするかわからないものだ。
この一連の事件のお陰で、一哉は大学生の本分を体で分かり、以後、卒業するまで、本来の学問にいそしむ経験をすることができたのである。
彼の野生度の純粋性を極致にまで持っていくことができた最後の体験でもあった。
そして、いよいよ、竹園一哉が生を受けたその時から与えられていた、使命に向かって驀進する季節がやってきたのである。