(その二十七)

イギリスとアメリカの関係。
それは大西洋を中心にした世界だ。
アメリカと日本の関係。
それは太平洋を中心にした世界だ。
では、
イギリスと日本の関係はどうなのか?
まさに、
ユーラシア大陸を中心にした世界なのだ。
そして、
21世紀は太平洋を中心にした世界が展開されている。
1853年7月、日本の浦賀にアメリカのペリー艦隊がやって来た。
1776年。
第一次英米戦争。
そして、アメリカはイギリスからの独立を宣言したが、イギリスは決してそれを認めなかった。
1812年。
第二次英米戦争の中でアメリカは北米大陸の横断に成功し、太平洋の存在を知った。
そして捕鯨船を太平洋に出した中で、太平洋の西端にある日本列島に辿り着いた。
1853年。
米国海軍ペリー艦隊の日本来航だ。
それまで鎖国政策を採ってきた日本の門戸をアメリカがこじ開けようとしたのである。
翌年の1854年、徳川幕府はいとも簡単に鎖国政策を放り投げて、アメリカと通商協定を結んだ。
何故だろう?
日本という国がアメリカという国をはじめて知ったのは果たしてこの時だったのだろうか?
織田信長が天下布武を成し遂げた時から、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが来日し、島原の乱に至るおよそ100年の間に、一部の日本人がアメリカという国をはじめて知った。
伊達政宗の命によってローマバチカンを訪問した支倉常長は、太平洋を横断してアメリカ大陸経由更に大西洋を渡ってスペインに行ったのである。
伊達政宗はアメリカ大陸の原住民を侵略し蹂躙したスペインやポルトガルのやり方を義としたから、支倉常長を太平洋経由アメリカ大陸経由で大西洋を渡らせてスペインに行かせたのである。
だが、天下を取った徳川家康はアメリカ大陸の原住民を侵略し蹂躙したスペインやポルトガルのやり方を不義としたから、その後の日本に鎖国政策を取らせたのである。
同じことが、明治維新直後の日本にも起こった。
西郷隆盛がなぜ西南の役を起こしたのか謎のままだった。
西郷の盟友であった大久保利通との軋轢の結果が西南の役である。
岩倉具視と共に先進ヨーロッパに渡った大久保は、いわゆる、欧米列強のパワーを見せつけられた結果、欧米列強帝国覇権植民地主義を義としたのに対し、西郷はアフリカ大陸、南米大陸、延いては、アジアの大国である中国やインドまでも呑み込んでいった欧米列強帝国覇権植民地主義を不義とした結果の軋轢だったのである。
伊達政宗と大久保利通は欧米列強帝国覇権植民地主義を義として、日本を導こうとした。
徳川家康と西郷隆盛は欧米列強帝国覇権植民地主義を不義として、日本独自の道を模索した。
そして詰まる処、
日本は人類史上唯一の被爆国になってしまった。
どうやら、
日本という国は西洋社会に対する大きな過ち、すなわち、勘違いを2回してきたようだ。
近代社会の最大の悲劇がここに起因する。
1582年に起きた本能寺の変によってこの世を去った織田信長。
1877年に起きた西南戦争によってこの世を去った西郷隆盛。
織田信長が本能寺の変で死ななかったら?
西郷隆盛が西南戦争で死ななかったら?
逆説の歴史観で言えば、
豊臣秀吉が天下を取らなかったら?
大久保利通と岩倉具視が天下を取らなかったら?
日本の近代社会のみならず、世界の近代社会の悲劇を避け得ることができたかもしれない。
この問いかけは人類にとって途轍もなく大きな問題なのだ。
まさに、
支配者たちの森だけではない、開放された人間社会が実現する可能性があったことを示唆していると共に、従来の歴史観がまさに片手落ちの学問に過ぎなかったことの証でもある。
従来の歴史観は支配者たちの都合で描かれてきただけで、被支配者たちの真実の歴史は一切書かれなかった。
こんな歴史はまさに片手落ちもいいとこだ。
一哉は中東の火薬庫イランからヨーロッパの嘗ての火薬庫イギリスに渡り、今、世界の火薬庫アメリカを目差す意志を固めた。
『エリザベスに再会できるんだ!』
『さあ!いよいよ最後の仕上げの段階に入ったようだ!』
文明社会は支配・被支配二層構造の世襲・相続という差別制度と共に進化と退化を繰り返してきたが、人類は進化という功的側面にしか目を向けずにこれまでやってきた。
その付けがいま回ってきたようだ。
世界が女性社会へと驀進しているのが、まさに、その証だ。
女性社会への変化は回ってきた付けだったのである。
必ず回ってくる付けとは、進化という功的側面にしか目を向けず、コインには表面のみならず裏面が必ずあるように、退化という罪的側面に目を向けざるを得ない事態になることに他ならない。
支配者たちの森の本丸へいよいよ仕掛ける機会がやって来ていることに、肝腎の一哉がどれほど自覚しているのか?
その鍵を握っているのがエリザベスなのである。