(その二十四)

一哉とエリザベスはテヘランからロンドンまでの陸路の旅を経験した。
イランとイギリス。
中東の国とヨーロッパの国。
ユーラシア大陸では、西の僻地と、まさに文字通り中央から東よりの中東の地の関係だから、歴史的には中東のイランの方が圧倒的に文明の進んだ国なのである。
飛行機という文明の力を利用すると時間の節約というメリットにはなるが、真理を忘れさせてしまうというデメリットが生じるのに対して、陸続きの道を踏破するということは、時間の無駄使いの反対給付として、真理を想い出させてくれる。
事実イランからロンドンまで辿り着く道は限られていて、カスピ海から黒海、黒海から地中海それぞれの沿岸を辿るしかない。
ユーラシア大陸の東の果てにある日の出る地(asis = Asiaの語源)と、西の果てにある日の沈む地(ereb = Europeの語源)を結ぶ線上にできたシルクロードの背骨として沿岸シルクロードがある所以だ。
イラン南部のシラズから首都テヘランまで約1000km、テヘランからカスピ海沿岸の西端の町ラシットを経由してカスピ海西岸を北上してバクーまで約1000km、バクーからアナトリア高原を超えてイスタンブールまで1500km、そして、イスタンブールからオリエント急行でロンドンが終着駅だ。
およそ3日かけてのオリエント急行の旅は7日間かかるシベリア鉄道に次ぐ長い鉄道である。
イスタンブールからのオリエント急行の旅は一哉にとってはじめての経験だったが、エリザベスが熟知していた。
というのは、彼女は実際に出演していなかったが、アガサ・クリスティー原作の映画「オリエント急行殺人事件」に深く因縁があったからで、オリエント急行でパリまでの間に、一哉はその因縁を詳しく聞いた。
「オリエント急行殺人事件」の中のイングリッド・バーグマン演じるグレタ・オルソン役は当初エリザベスに決まっており、ドラゴミノフ公爵夫人役を打診されていたイングリッド・バーグマンがオルソン役を強く希望したため、出演の芽を抜かれていたという経緯があった。
結果、イングリッド・バーグマンは1974年度アカデミー賞助演女優賞を獲得した。
当時、ハリウッドの女王はイングリッド・バーグマンでもなく、マリリン・モンローでもなく間違いなくエリザベス・テーラーであったにも拘わらずである。
主人公の私立探偵エルキュール・ポアロ演じるアルバート・フィニーがエリザベス・テーラーのグレタ・オルソン役を拒否したからである。
アルバート・フィニーはイギリスのマンチェスター出身の俳優で、王立演劇学校を卒業したビクトリア王朝おかかえのエリート俳優だった。
王立演劇学校の同期生に映画「アラビアのロレンス」の主役を新人で獲得したピーター・オトゥールがいる。
イギリスにはデビッド・リーンという大御所がいて、アレック・ギネス、ジャック・ホーキンスの後を引き継いだアルバート・フィニーやピーター・オトゥールもデビッド・リーンのお気に入りだっただけに、ハリウッドの女王でも言うことを聞かざるを得なかったのである。
日本映画界での黒澤明のお気に入りの俳優として志村喬や藤原釜足がいたのと酷似している。
結局は映画に出演すらできなかったエリザベスだったが、ロケ現場には常に顔を出してスタンバイしていたのである。
イスタンブールからロンドンまでの旅はエリザベスに任せた。
一方、テヘランからラシット、ラシットからバクー、バクーからイスタンブールへの旅は一哉のこれまでの中東での豊富な経験が生きた。
ラシットに着いた二人は、湖畔にある白い別荘に落ち着いた。
一哉の友人であるハミドの別荘である。
カスピ海の沿岸に建てられた白い別荘は、エリザベスをこの上なく感動させた。
「“いそしぎ”のロケの頃を思い出すわ!」
彼女にとって、映画「いそしぎ」はよほど特別な想いがあったようだ。
そう思う一哉の心情を推し測ってか、エリザベスは話しはじめた。
「リチャードをはじめて知ったのは、『クレオパトラ』で共演した時で、その頃、わたしは喉を痛めて本当に辛かった時期だったの・・・」
「その次に彼と再会したのが、『いそしぎ』での共演だったの・・・」
そこでエリザベスは口ごもってしまった。
ハリウッドの女王の座をオードリー・ヘップバーンに明渡したドラマが、その後展開されるのである。
まさに、ハリウッド映画界がユダヤ資本に乗っ取られた瞬間でもあった。
なぜなら、オードリー・ヘップバーンはアシュケナジーユダヤ人だったからだ。
アメリカという国が嘗てのイギリスと同じように、一握りの人間に支配される前兆が1960年前後からはじまっていた一環で、ハリウッド映画界もそのうねりに撒き込まれていたのである。
1954年に「ローマの休日」という映画でオードリー・ヘップバーンはデビューした。
同年、エリザベスは「ジャイアンツ」で主演した。
共演は親友のロック・ハドソンと憧れのジェームス・ディーンだったが、撮影の最終段階に入って大事件が起きた。
ジェームス・ディーンが撮影の合間に交通事故で死んでしまったのである。
ジェームス・ディーン主演の第2作目である「理由なき反抗」で共演したナタリー・ウッドとエリザベスは、この訃報を聞いて驚愕した。
1950年代のアメリカは「赤狩り」の嵐が吹きまくり、映画界にも大きな影を投げかけていた。
「エデンの東」を監督したエリア・カザンは「赤」の烙印のみならず裏切り者の汚名を着せられていた。
まさに、ハリウッドがユダヤ資本に乗っ取られた時期に符合し、ユダヤ人女優オードリー・ヘップバーンが「ローマの休日」で颯爽と登場したのである。
そして、そのメガフォンを取ったのが、ウイリアム・ワイラーであり、それから5年後の1959年に彼は「ベンハー」でアカデミー賞を受賞した。
ハリウッド映画界がユダヤ人たちに完全支配された瞬間だった。
次の年にアカデミー賞を取った「アパートの鍵貸します」のビリー・ワイルダーで仕上げた連中は、日本の映画界にも触手を伸ばした。
当時、山本嘉次郎の下で助監督をしていた黒澤明に目をつけたのである。
ハリウッドを手に入れた彼らがどうしても制御できなかったのが、フランスとイタリアの映画界だった。
フランスはカンヌ映画祭。
イタリアはベネチア映画祭。
黒澤明がはじめて監督した「羅生門」がベネチア映画祭でグランプリを受賞したのである。
一哉が高校時代に没頭した洋画とは決してハリウッド映画だけではなく、イタリア映画やフランス映画でもあったし、邦画でも黒澤作品に夢中になった訳が、エリザベスの話で自解できたのである。