(その二十一)

太陽信仰のゾロアスター教は、マヤ暦で言うところの2012年12月22日を一体どのように捉えているか?
関心がこの一点に絞られていった一哉は、テヘラン市内にあるゾロアスター教の寺院を探したが、テヘランにはなく、イラン中央部のヤズド、南東部のケルマン地区を中心に数万人の信者が存在していることがわかった。
ヤズドは人口が30万人の都市でその約1割がゾロアスター教徒らしい。
ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火寺院は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「聖火」を見ることができる。
ゾロアスター教は、善と悪が争い、最終的には善が勝利するとされている。
ユダヤ教を母体としたキリスト教もこれらを継承していると言われる。
さらに、大乗仏教において弥勒信仰と結びつき、またマニ教もゾロアスター教の思想を吸収した。
イスラム教もまた、ユダヤ教やキリスト教、マニ教と並んでゾロアスター教の影響を受けており、聖典「コーラン」にもゾロアスター教徒の名が登場する。
日本の電機メーカーである東芝が過去に使用した電球や真空管などのブランド名「マツダ」の綴り Mazda、自動車メーカーのマツダは創業者の姓(松田)を冠していると共に、その綴り Mazda はゾロアスター教の主神アフラ・マズダーに由来する。
バザールというペルシャ語の言葉の意味は「市場」であり、アラビア語ではスークであり、英語ではマーケットだが、バザールそのものが町の名前になっているのはイランだけである。
バザールジュメールはまさにイランのイラン足る所以の町だ。
イランが白人のルーツであるアーリア人誕生の地であり、アーリア人はイスラム教ではなくキリスト教を信奉する背景にゾロアスター教が潜み、首都テヘランの隠れた地バザールジュメールにその原点がある。
一哉はバザールジュメールに銭湯があることを知った。
『銭湯は昔の日本のよき文化として残っていただけと思っていたが、日本から遥か離れたペルシャの地にもあったとは!』
『そう言えば、古代ローマ帝国にも公衆浴場があった!』
公衆浴場が日本では銭湯という文化に変わっていただけで、シルクロードを通って伝来していたのは有形、無形両方だったのである。
古代ローマ帝国の有名な公衆浴場はカラカラ浴場だ。
まさに、バザールジュメールにある銭湯はカラカラ浴場そのものだった。
カラカラ浴場はただの浴場よりもむしろ娯楽性の高いレジャー施設であった。
古代ローマの帝政期以降は男性間の同性愛行為がごく自然な性行為と見なされていた事もあり発展場としての役割もあった。
一哉はバザールジュメールにある銭湯に行ってみて吃驚した。
日本の銭湯システムとまるで同じなのだ。
ただ違うのは女性用はないという点だけで、代金を支払う番台システムから、木の鍵つき靴箱から、衣類箱までまるで日本の銭湯そのものだ。
日本の銭湯の歴史は日本に仏教伝来した時からはじまる。
僧侶達が身を清める為、寺院に「浴堂」が設置され、病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、貧しい人々や病人・囚人らを対象としての施浴も積極的に行なうようになった。
鎌倉時代になると一般人にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料を取るようになり、これが銭湯の始まりとなった。
日蓮が書き記した「御弟どもには常に不便のよし有べし。常に湯銭、草履の値なんど心あるべし」と"湯銭" という文字があることから、このころにはすでに入浴料を支払う形の銭湯が存在していたと考えられる。
室町時代における京都の街中では入浴を営業とする銭湯が増えていった。
このころ、庶民が使用する銭湯は、蒸し風呂タイプの入浴法が主流だった。
いわゆるトルコ風呂として戦後の日本で流行した類だが、実は、トルコ風呂ではなく、古代ペルシャ風呂であったのだ。
また、当時の上流階層であった公家や武家の邸宅には入浴施設が取り入れられるようになっていたが、公家の中には庶民が使う銭湯(風呂屋)を、庶民の利用を排除した上で、時間限定で貸し切る「留風呂」と呼ばれる形で利用した者もいた。
まさに、封建社会の典型が銭湯という場で形成されていったのである。
「封建」という漢字は誤解を招く。
「Feudalism」と言えば、封建社会の正しい理解ができる。
大英辞典で“Feudalism”とは“A system that existed in the Middle Ages, in which people received land and protection from someone of a higher rank when they worked and fought for him”と説明されていることからも理解ができる。
訳せば、
“封建制とは、中世の時代に存在した形式で、自分よりも身分の上の人から土地とその保障を貰う代わりに、その人のために働いたり戦ったりする”
まさに、
封建制の精神は双務的にあって、片務的では決してない点にあることを忘れてはならない。
ところが、日本の江戸時代の封建制では、主人と家来の間の契約は主人側からの一方的な片務契約になった。
まさに、元禄時代の「忠臣蔵」における徳川将軍家の判断は主人から家来への一方的な片務契約の結果であって、浅野家臣の主人の仇撃ちも一見主人から家来への一方的な片務契約の結果であった。
だが、元禄時代は中世封建社会の阿土・桃山時代の名残りを色濃く残していた時代だった。
逆に言えば、近世の絶対王政による中央集権政治から近代の民主主義政治の縁を見せかけはじめていた時代とも言えた。
西洋社会における封建制(Feudalism)と日本社会における封建制には大きな乖離があった。
徳川家による江戸幕府は、それまでの鎌倉幕府、室町幕府とは根本的に違っていたから、鎌倉時代、室町時代は中世という時代区分に組み込まれているのに、江戸時代だけは近世とされ、明治維新によって一気に近代へと進んだとするのが、従来の歴史のスタンスだ。
従来の歴史のスタンスから、新しい歴史のスタンスに切り替える時期が21世紀なのかもしれない。