(その二十)

一哉が3ヶ月間滞在していたテヘランの下町バザールジュメールには、ゾロアスター教の寺院があった。
ゾロアスター教は世界最古の宗教で、現在ではイスラム教が国教のイランだが、もともとはゾロアスター教の国で、白人種のルーツと言われているアーリア人発生の地であることと深く関わっている。
アーリア人の血を引くイラン人はゾロアスター教を今でも信じている。
紀元前6世紀、ペルシャの預言者ゾロアスターは、善神をアフロ・マズダ、悪神をアフリマンと称し、善神の象徴である太陽を崇拝する教えを説き、古代ペルシャの国教までなった。
2012年12月22日。
世紀末にあたるマヤ暦に符合するように、地球がフォトンベルトに突入する日である。
マヤ文明はアトランティス文明やムー文明といった幻想の世界の話ではなく、現代文明の走りの一つで、エジプト文明やメソポタミア文明と何ら変わりはない。
紀元前6世紀の頃に出現したマヤ文明は、南北アメリカ大陸の首根っこの部分であるユカタン半島で繁栄し、コロンブスがやって来る16世紀まで続いた。
一哉はアメリカのカリフォルニアにいたことがある。
カリフォルニアはヒスパニックの州でもある。
特にメキシコ系が多く、一哉の友人にも多くのメキシコ人がいて、メキシコのユカタン半島に古代マヤ文明があったことを教えられたことを、ここイランでゾロアスター教を知ったことで思い出した。
同じ太陽信仰なのである。
歴史は、一般に国家レベルで語られる。
日本人にとっての歴史は日本史だ。
そして、
国家レベルの歴史を総合して世界史となる。
学校で学ぶ歴史学に日本史と世界史がある所以だ。
それ以外の歴史として、各分野の歴史がある。
音楽史、絵画史(美術史)、文学史・・・といった具合だ。
では、
歴史とは一体何の目的で誕生したのだろうか?
まさに、
歴史とは、社会学に他ならないのである。
言い換えれば、
歴史とは、組織学に他ならないのである。
では、
歴史には、個人の歴史はないのだろうか?
そんなことは決してない。
個人の歴史の集積が社会(組織)の歴史になっているだけで、実在するのは飽くまで個人の歴史である。
まさに、
歴史上の人物として語られる所以がここにある。
ところが、
従来の歴史はすべて社会学で止まり、個人学にまで及んでいない。
まさに、
日本史、世界史の所以だ。
従来の歴史が、支配者のための歴史で止まっている最大の理由である。
逆に言えば、
被支配者のための歴史が日の目を見るためには、社会、すなわち、組織学ではなく、個人の歴史を基本にしなければならないのである。
まさに、
被支配者である国民のための歴史は、個人の歴史から始めなければならないのである。
そのためには、
ひとり一人の人間が、自分の歴史について検証できる能力が不可欠である。
まさに、
立体的歴史観の所以である。
歴史には、
点の歴史、線の歴史、面の歴史、そして、立体の歴史があり、従来の歴史は、点(年代だけを語る歴史)及び線(日本史・・・)若しくは精々、面の歴史(世界史)に過ぎなかったのである。
つまり、
歴史が社会学である所以だ。
一方、
立体の歴史とは、宇宙レベルの歴史であり、基本にあるのは個人であって、社会では決してないのである。
教祖の名前がそのまま宗教の名前までなっているのはゾロアスター教だけである。
最古の宗教の所以でもある。
キリスト教の教祖の名前はイエス・キリストではなく、インマニュエル・メシアであるから、キリスト教は教祖の名前を採った宗教ではない。
一哉が宗教の欺瞞性にはじめて気づいたのが、ここイランでの経験だった。
宗教の欺瞞性を一般大衆は当初から見抜いていた節があるのは、彼らの宗教に対する本音と建前の二本使いの点に窺われる。
敬虔主義(Pietism)を誇りにしているユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった旧約聖書をバイブルとした宗教にも本音と建前が見え隠れする結果、これらの宗教が他の宗教から偽善的と揶揄される原因になっている。
パーレビ王朝が権勢を誇っていた頃の一般国民は、嘗ての日本と同じように、国家元首としての国王、王妃の写真を家に飾り、イスラムの教えに基づく一日17回の呪文を5回のお祈りの中でメッカに向かって繰り返すことをほとんどしない彼らだったのに、イラン革命後、ホメイニが国を支配するようになると、真剣にお祈りをするポーズをするところに、いくらストイックなイスラム教といえども、本音と建前が見え隠れする。
爾来、石油マネーで溢れたイランという国が、本音ではお金を求めながらも、建前ではメッカに向かってお祈りをするという二重人格的国家になっていった。
この流れは進化論的とは到底思えない。
むしろ、人間社会を退化論的に捉えなければならない。
人間の数、すなわち、人口が増えることは好いことなのか?
寧ろ、地球全体の観点からすれば、ある特別な生きものだけが増殖することは、致命傷になるわけだから、たとえ、人間社会にとっては好いことであっても、結局の処は天に唾する行為になる。
やはり、人間社会もしょせん自然社会の一部である証だ。
自然社会も一見、支配・被支配二層構造社会のように思われがちだが、それはしょせん、人間から見た勝手な判断である。
いわんや、
自然社会には、世襲・相続の慣習は決してない。
ボスが世襲・相続するような種がいたら、あっという間にその種は絶滅してしまうからだ。
真に力(実力)ある者だけがボスの座を引き継いでいくのは、自然社会の絶対的掟だ。
更に、
一見、ボスはオスであるような自然社会だが、自然社会に厳然と働いている掟は飽くまで自然の食物連鎖の法則だけであり、自然社会、すなわち、地球を構成している三態(鉱物・植物・動物)を維持するためのものである。
46億年前に太陽から誕生した地球は、当初、他の星と同じように鉱物だけで構成されていたが、それから8億年後の今から38億年前にはじめて単細胞生物が誕生して以来、三態(鉱物・植物・動物)が存在する星になった。
「二十一世紀の歴史観」の根幹にある立体的歴史観では、人間の歴史も宇宙の歴史の一環として捉えている点にあり、ましてや、我々人間の産みの親である地球の歴史を無視することはできない。
三態(鉱物・植物・動物)構造を持つ地球にとっての絶対的法則(掟)が自然の食物連鎖の法則であり、それぞれの種が与えられている役割は絶対的である。
そして、
それぞれの種は必ず、メスとオスの番(つがい)になっており、メスの役割は子を産むことと食物の調達であり、オスの役割は子種の提供と外敵から守ることにあり、種の保存上、メス社会になっている。
ところが、最も弱き生きものであったゆえ、常に外敵から守るオスの役割が重要になり、延いては、オス社会になったのが、人間社会だが、いくら人間が突っ張ってもしょせん、人間社会も自然社会に組み込まれていることを忘れ、オス社会になり、しょせん子種しか提供できないオスの威厳を守るために、世襲・相続の差別システムとセットになった支配・被支配二層構造の人間社会ができあがってしまったのである。
まさに、
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会は、オス社会(男性社会)ゆえの産物だったのである。
文明社会の黎明期に支配する者と支配される者に区分けすることがはじまり、区分けという行為は二元論的思考を生み、二元論の本質である質的優位性は量的劣位性を持ち、質的劣位性は量的優位性を持つことから、支配者の数は少なく、被支配者の数は圧倒的に多いことからくる支配者たちの自己矛盾を解決するために、被支配者たちに死を悪いものと捉えさせる錯覚が必要になった。
この自己矛盾をごまかすために宗教が誕生した。
人知を超える存在が要ったからだ。
そして、神の概念が宗教から誕生した。
そして、晴れて、死が悪いものになった。
「死の理解」どころか「死の錯覚」に陥ったのが、死を知った唯一の生きもの人類だったとは皮肉な結果だ。
死を知らない自然社会の生きものたちは、無意識のうちに「死の理解」をしている。
「死の理解」をするために死を知ったはずの人類が、逆に「死の錯覚」をしてしまう羽目に陥った。
「死の錯覚」をさせた張本人が宗教だ。
だから、
宗教は人間社会だけにしかない。
21世紀が宗教の消滅する世紀である所以は、「死の理解」をする世紀だからである。
逆に言えば、
宗教と科学が巾を利かした20世紀までは、「死の錯覚」こそが核だったのである。