(その二)

『何かおかしい?』
一哉が小学校に入ってから、心の中の呟きはますます激しくなっていった。
心の中の呟きが囁きに変わる時期であり、一般的には、当人は独り言だと思い込んでいるのだが、その頃には既に、心の囁きになっているのである。
ところが、一哉は心の囁きに変えず、独り言を維持しなければならないことを自覚していたようだ。
心の中の呟きは独り言に過ぎないが、心の囁きになると独りではなくなる。
自我意識に未だ目覚めない間は独り言の心の呟きでおさまっているが、自我意識に目覚めはじめると、複数の心の囁きに変わっていくと同時に、この囁きこそが、“自分”という意識の目覚めとなる。
複数の心の囁きは複数の“自分”を生みだすのに、“自分”は独りだと思い込むのは、独り言の心の呟きに端を発しているからだ。
小学校に入る前までは、この呟きは間違いなく独り言だったのに、今では、複数の囁きに取って替わろうとしていることを、本人は自覚していた。
更には、その変化の原因も明確に理解していたのである。
一哉の7才までの成長の基盤が、人間性ではなく野性であったからで、人間性から派生する人間生の潜在能力は精々、20%から30%であるのに対して、野性から派生する野生の潜在能力は100%が当たり前であるからして、野生の100%の潜在能力が発揮可能な一哉にとっては、至極、当然の洞察であった。
その原因は、接触する人間が極端に増えたからだ。
人格形成の第一段階が、小学校で多くの生徒たちと邂逅するこの瞬間(とき)なのであり、その中には友達という、その後、否応なしに自己犠牲を強いられる数人の人間が立ちはだかるのである。
だから、7才までの成長に野生は必須なのだ。
7才までの家族という小さな世界だけで生きてきた子供に野生が欠けていると、社会という途方もなく大きな世界に放り出されたときに感じるはじめての抑圧に押し潰されて、心の呟きという独り言を複数の心の囁きに変節させていくのだ。
そして、“自分”という意識が湧きあがってくるのである。
自他の区分け意識が生じる瞬間でもある。
“自分”という意識が湧き上がると同時に、“他者”という意識も自動的に発生する結果、自他という二元要因が生じるわけである。
二が生じたら、三も四も・・・九も自動的に生じる。
ゼロのままであったら、一も二もない。
だから、ゼロは一だけなのである。
ところが、一から二が発生したら、波状効果で、三も四も・・・九も自動的に生じる。
だから、ゼロ=一であることが一元論なのであり、一と二、すなわち、自と他に区分けされると二元論になり、三も四も・・・九も自動的に生じ、十から百、千、万、そして、一万、十万、百万、千万、そして、一億、十億、百億、千億、そして、一兆、十兆、百兆、千兆、そして、一京、十京、百京、千京、そして、一垓、十垓、百垓、千垓、そして、一杼、十杼、百杼、千杼、そして、一穣、十穣、百穣、千穣と限りなく拡がる。
69億という途轍もない人口まで人間社会が膨張してしまった原因は、野生が欠落した人間ばかりになったからである。
野性の生きものの社会、すなわち、自然社会では、それぞれの種の数は不増不減、つまり、増え過ぎることもなく、減り過ぎることもないように図られている。
地球レベルでは、鉱物・植物・動物という物質の三態が循環するための、自然の食物連鎖の法則という掟だが、宇宙レベルでは、素粒子、原子といった量子という物質の相転移現象に過ぎない。
しかも、量子という概念は不確定原理というミクロ世界を支配している原理に則していて、量子世界では光よりも速いものも存在し得るから、見える世界と見えない世界の境界がない。
生きるということが見える世界なら、死ぬということが見えない世界になるわけだが、摂氏0度から100度の間では見える水が生きることであり、摂氏100度以上になると見えない死んだ水蒸気となるような相転移現象に過ぎないのである。
地球上の有機生命体が誕生して生きて死ぬという現象も、しょせんは、鉱物・植物・動物という物質の三態が循環するための、自然の食物連鎖の法則であり、宇宙レベルでは、誕生・生・死も量子の相転移現象に過ぎない。
だから自然社会の生きものは、人間社会だけに発生するような余計な殺傷はしないのである。
ゼロ=一という一元論が、自他の区分け意識が生じるだけで、無限の欲望の世界へ誘う二元論の世界に嵌り込んでいき、その先には、差別・不条理・戦争の社会が待ち受けているのだ。
数字の原点は文字であり、文字の原点は言葉であるからして、畢竟、言葉が二元論の原点ということになる。
自然社会の生きものに言葉がない所以は、彼らがゼロ=一の一元論世界に生きているからだ。
人間社会の生きもの、つまり、人間のみならず、ペット化された生きものはすべて、一と二で自他の区分けをする二元論世界の住人と化す。
ペットとは犬や猫だけではなく、人間そのものがペット化されているのが人間社会なのであり、ペット化とは悪意の為せる業なのである。
言葉とはこと左様に恐るべき力を持っている。
『何かおかしい?』
この言葉が、一哉に恐るべき力を与えていくことになるのも、言葉がこと右様に恐るべき力を持っていたことの証左となるのである。
畢竟、言葉に意図はない、言葉をつくった人間に意図があっただけで、完全な平等性を発揮する二元論世界を選択するか、二律背反する歪んだ二元論の考え方を選ぶかは、選択する者のオプションだ。
その分岐点が人間の場合には、最初の7才の時期に当たり、一哉は凡その子供たちと反対の道を選んだわけである。
その前触れが、『何かおかしい?』という言葉にあり、独り言による心の呟きのままで成長していくか、複数の心の囁きに変節していくかの分岐点でもあった。
毎朝、仏壇に御飯を供えることに疑問を感じながら、7才に達した一哉だったが、間断なく湧いてくる疑問が間違いなかったことを、この一件でようやく確信できたことは、彼の人生において、後にも先にも、最大の恩恵であり、まるで天国と地獄の差ほどの人生の分岐点であった。
人間の一生の中で基盤づくりの最初の7年間に、親からどのような育てられて方をするかで、その後の人生を決定づけられてしまうのだから、親の影響は計り知れないほど大きい。
「そうよね・・・それはおかしいわね・・・お母さんが間違っていたわ・・・明日から御飯を供えるのはやめましょうね・・・」
母、末野の言葉は、一哉の脳裏から一生消えることはなかった。
脳裏に湧きあがった疑問が解けて、子供から大人に成長していくか、疑問が解けないまま大人になっていくかの違いは、月とスッポンの差ほどある。
人間だけが、潜在能力を、精々、20%程度しか発揮できないのは、子供の頃に湧きあがった人間社会に対する疑問が解けないまま大人になっていくからだ。
そういう意味では、一哉は潜在能力を100%発揮できる、極めて珍しい人間として大人への道に一歩踏み込んだのであり、母、末野の言葉は彼にとって“人生の宝”となったのである。
小学校六年生になった一哉は、クラスで一番の人気者の西田祝和(のりかず)と親しくなっていった。
四年生の時に転校生として入学してきた西田は、またたく間に、クラスのみならず、学年の人気者になっていった。
五年生に進級した一学期の学級委員の選挙でも、彼は圧倒的な支持を獲得した。
夏休みまでが一学期、冬休みまでが二学期、そして、春休みまでが三学期と一学年が三学期に分かれているのだが、各学期ごとに学級委員が選ばれる。
一学期に選ばれる学級委員にクラスで一番出来のいい生徒がなり、二番目に出来のいい生徒が二学期の学級委員に選ばれ、三番目に出来のいい生徒が三学期の学級委員に選ばれるように生徒間で暗黙の了解事項となっているのだが、そのメカニズムを一哉は見抜くことはできなかったが、友人の一人で駅前のガラス屋の息子である田中一郎は見抜いていたことを知ったのは、およそ50年後のことだった。
一哉が小学校を卒業してからも尊敬と敬愛の念を持ち続けてきた担任の行旨(ゆきむね)先生が、実は、えこ贔屓の甚だしい人物であったことを田中から教えられた。
しかも、当人の行旨先生を前にして田中は言い放ったのである。
「行旨先生は、西田をなんであんなに贔屓にしたんですか?」
当人にずばり訊いたのである。
「西田君は転校生だったから、不憫に思って・・・」
言い訳している所為か、行旨先生の表情は雲っていた。
『そうか、そうだったのか!』
『西田が出来のいい生徒だとみんなが思っていたのは、行旨先生のえこ贔屓の所為であって、ほんとうは、西田は出来の悪い生徒だったんだ!』
『中学校の試験で、その事が証明されただけだったんだ!』
一哉は50年間抱き続けた疑問がやっと解けたのである。
小学校では、PTAの会長や役員をしている父兄の子が、出来のいい生徒になっている場合が多々あり、しかも、そういった父兄は裕福と決まっている。
『結局は、裕福な家の生徒が優遇されているのが、小学校の実体だった!』
竹園家は間違いなく裕福な家庭であったにも拘わらず、一哉が優遇されなかったのは、それだけ一哉が、人間社会の常識に囚われない野生の子供であった証明でもある。
だから、一哉は学級委員になったことが一度もない、つまり、クラスで三番目の出来のいい生徒までには入っていなかったのであり、一哉自身もそのことを何の疑問も持たずに、謙虚に自認していた。
『自分は一番でも、二番でも、三番でもない、ただの普通の生徒や!』
そう思う自分に何の疑問も持っていなかった。
学級委員になっていく生徒たちの方が、自分よりも上だと素直に認めていたのである。
「西田!お前は頭がいいんやな!」
一哉は素直に思ったことを言ったが、西田は微笑むだけで黙っていた。
西田の沈黙の微笑に一瞬、違和感を持った一哉だったが、その原因の一瞥を得たのは、中学校に進学してからのことであり、真の原因が判るためには、50年の歳月がかかったのである。
二番目に出来のいい生徒だった大林源一は、越境入学で別の区の中学校に進学していった。
三番目に出来のいい生徒だった井手洋は、自宅の住所の都合で、やはり、別の中学校に進学していった。
一方、一番出来のいい生徒だった西田は、同じ中学校に進学することになって、一哉は純粋に嬉しく思った。
進学する中学校には、三つの小学校の卒業生が集結するから、どんなすごい生徒が別の小学校にはいるかもしれない。
西田が自分たちの小学校の切り札と信じてやまなかった一哉は、西田を誇りにさえ思っていたのである。
そして、中学校に入学して最初の中間テストが6月に行われ、テストの結果を掲示板に貼り出すというのである。
小学校では、成績が良いか悪いかは、担任の先生が評価する通知簿だけが基準であり、その内容は公表されないから、学級委員の選ばれ方で暗黙の合意事項となるのだが、進学した中学校では、テストの結果という明確な基準で評価される。
一哉はここでも野生を発揮した。つまり、試験勉強をいっさいせずに中間テストに臨んだのである。
巷では、みんな必死に勉強していたらしい。
そして、試験結果が掲示板に貼り出された。
一哉は自分の名前よりも、西田祝和の名前を一位の方から探しはじめた。
一位、柳五郎(455点)、二位、石尾浩(436点)、三位、金光弘(430点)・・・十位まで追いかけてみたが、西田祝和の名前がない。
そして、十八位に竹園一哉(386点)という文字を発見したことに少々の驚きと喜びを感じたのも束の間、最後の五十位までに、西田祝和の名前がとうとう出てこなかったことを知った時には、『何かの間違いではないのか?!』と半信半疑の想いと共に、強烈なショックが一哉を襲った。
中学一年の全生徒数が300で、上位50人の生徒の試験結果だけ掲載されたのだが、五十位の成績が250点を下回っていた結果は、一科目平均点が100点満点の半分の50点以下ということを意味していた。
五十位以下の250人の生徒は、平均点が100点満点の半分の50点以下であり、西田もその中の一人であることを知った一哉のショックは想像を絶するものだった。
まったく試験勉強もせずに386点を獲得した一哉の平均点は75点を上回っていたが、本人はごく平凡な成績だと思っていたから、50点以下の平均点しか獲得できない生徒は、極めて出来の悪い生徒のカテゴリーに入る。
小学校では一番出来のいい生徒だった西田が、中学校では極めて出来の悪い生徒250杷一絡げであったのである。
一哉は掲示板の前で思った。
『これは何かの間違いだ。一回のテストだけではわからない。まったく試験勉強もしなくても、クラスで3番、学年で18番に入れた自分は運がよかっただけ・・・西田は運が悪かっただけに違いない』
だがこの一縷の希望も、中学を卒業するまでの三年間の儚い夢と化した。
西田の成績は以後ほとんど変わることはなかったのである。
更には、最後の悪夢まで用意されていた。
高校受験で西田は、本命の公立高校の受験のみならず、滑り止めの私立高校の受験にまで失敗してしまったのである。
しかも失敗した公立、私立高校は三流高校であったから悲惨そのものだった。
『いったいあいつの頭はどうなっているんだ!』
『よほどの阿呆しかあり得ないのではないか!』
『小学校の時の一番出来のいいあいつは嘘だったのか!』
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『何かおかしい?』
複数の心の囁きではなく、独り言による心の呟きを明確に自覚した瞬間であったことは、一哉にとっては嫌な思い出であったが、彼の人生においては恵みの出来事でもあった。
一哉の高校受験に臨む姿勢も、まさに、野生から発するものだった。
中学入学当初の一哉のクラスで3番、学年で18番の試験結果は、小学校時代の彼の評価が極めて凡庸であったことからすれば、上出来であったことを他の同じ小学校出身の同級生たちが驚嘆することではあったが、当の本人は大した自覚もなかった。
そして、中学一年生の年間を通して、総数300人という一学年で常に10番以内というレベルを維持した一哉の成績は、まさに出来のいい生徒の評価を得ることになったのだが、試験勉強に対する一哉の姿勢は依然変わりなかった。
自分に対する評価の、小学校時代と中学校時代の大きなギャップは、一哉の心の中に無意識のうちに浸透していった。
中学二年になっても一哉の成績は、まったく勉強をしない姿勢には変わりないにも拘わらず、相変わらず出来のいい生徒のラベルを貼られていたが、ここで彼の家庭で培われた野生が頭をもたげはじめた。
努力も勉強もしないのに出来のいい生徒。
この矛盾に反撥したくて、出来の悪い生徒になることを決意したのである。
体格がずばぬけてよかった一哉は、中学二年になると、暴力をふるいはじめ、毎日のように喧嘩をするようになっていき、中学二年の終わり頃には、番長と言われるようになり、まさに、出来の悪い生徒のナンバー1になっていったが、成績は依然出来のいい部類を維持していた。
まさにギャップの極限状態になっていたのである。
勉強するかわりに体力を徹底的につけるため、クラブ活動などせずに、独りで肉体を鍛え抜く決心をし、それまで朝7時までむさぼっていた睡眠を2時間削り、早朝トレーニングを開始した。
圧倒的な体力は腕力に比例し、中学二年のはじめには喧嘩などしたことのない少年だったが、中学三年を迎える前には、既に、揺ぎなき番長までのしあがっていたのである。
ところが、中学三年に進級した始業式でとんでもないハプニングが起きた。
担任でもない英語の先生、通称、ダルマと呼ばれている石田先生が、一哉を朝礼台に引っ張り出し、全生徒の前で、一哉の頭をバリカンで丸坊主にしてしまったのである。
「こいつは、勉強もしないで喧嘩ばかりしておる!」
「そんな奴は、ここで赤っ恥をかかせてやる!」
番長と呼ばれ、いい気になっていた分、一哉はダルマの行為に激高したが、丸坊主で家に帰ると、父親の勝次朗から笑われた挙句、「なかなかいい先生だな!」と感心される始末だった。
このハプニングのお陰で、一哉はダルマを見返すためにはじめて必死に勉強をし、学年で常に10番以内という成績にあぐらをかいていたこれまでの自分を叱咤激励することで、はやくも一学期の学期末試験で900点満点の844点という圧倒的な成績で学年のトップにのし上がり、この位置は学年末まで堅持したのである。
そして、卒業式では、母親の末野が見ている前で、主席として特別表彰を受けたのだから、一哉にとっては結果的にはよかったことになる。
だが、ダルマの両親への必死の説得にも拘わらず、一哉は20番以内に入っていれば合格間違いないと言われた区内ナンバー1の高校に進学することを拒否したのである。
まさに、野生の面目躍如の出来事だった。
一方の西田もギャップの逆の極限状態になっていた。
悲惨な高校受験を経た西田の結末は、中学校の先生たちの必死の努力で、すぐ隣にある三流どころか五流と言われても仕方ない私立高校に滑り込みさせてもらったことで終結した。