(その十七)

一哉は世紀の大スターとシラズで別れ、テヘランに向かった。
未練は彼女の方にあったが、一哉は淡々と別れた。
デジャブ現象というのは飽くまで現象であって現実ではない。
まさに、夢は飽くまで夢であって現実ではないのと同じだ。
両親、殊に、父親の勝次郎の堅い意志で、7才まで野生児のままで育てられた一哉にとっては、ありのままの現実しかない。
イランはアラビア半島と同じような砂漠の国であると思っていた一哉は、首都テヘランの光景に度肝を抜かれた。
季節の所為もあったが、雪景色のテヘランなど想像の枠から遥かにはみだしていた。
ヨセフの紹介で知己を得たドバイの商人アリ・カリファがご他聞に洩れずシラズ出身のイラン人だったお蔭で、シラズからの1000キロのドライブでもモセニという知己を得た。
モセニの運転する車の窓から眺める光景は、一哉にとっては圧巻だった。
テヘランの南にある古都コムを通過するまでの砂漠というよりは土漠といった景色と打って変わった、ヨーロッパのアルプスにも似たテヘラン郊外の景色に先ず吃驚したのである。
白人至上主義が世界に蔓延したのは近代以降であり、特に、19世紀初頭にイギリスを中心に起こった第二次産業革命によって、世界の中心が中国・インドからヨーロッパに移ってからだが、白人のルーツがアーリア系にあり、アーリア系のルーツがペルシャ(イラン)にあった事実を裏づけるような首都テヘランの冬の光景だ。
「おどろいたな!」
「テヘランの雪景色なんて!」
運転席のモセニに言ったつもりはなく、ただ独り言を呟いたのだが、余りの感動に大声を発していた。
「テヘランは海抜1500メートルのところにある都市ですからね・・・・」
モセニの説明で、自分が高校生の時に行った高野山のことを一哉は思い出した。
高野山は1000メートル前後の山だが、平地よりも平均気温が10度も低く、冬の気温は20度以上低い。
「テヘランの冬はマイナス10度以下になることが珍しくありませんよ・・・」
テヘラン一の目抜き通りのパーレビ通りに入った彼らの車は、まっすぐ下町のバザールジュメールまで下って行った。
背後には5000メートル級の山々が雪を被って、一部解け出した雪がパーレビ通りの両側のクリークの流れを否応なしに速くする。
クリークの水の流れる音が車の中でも聞こえる。
「わたしの家は下町のバザールジュメールにありますが、ホテルがいいですか?」
モセニは気が弱そうな若者で、一哉よりは年上に見えるがさほど違いはないと、一哉は思っていた。
「僕はホテルがあんまり好きではないんです・・・」
ついつい本音が出てしまった。
「では、わたしの家に泊まってください」
モセニもそのつもりだったらしい。
バザールジュメールという名前が「バザール」の語源になっていて、「市場(マーケット)」の意味だけに、人の数が多く騒然雑多な雰囲気があり、人によっては敬遠するが、一哉は逆にそんな雰囲気が好きだった。
近代ホテルや洒落た店が立ち並ぶテヘランの市街地では、日本人観光客ツアーの連中も見かけるが、バザールジュメールでは皆無だ。
それだけにイランという国のイランたる理由が一目でわかるというものだ。
諸外国の裏の世界を覗いてみないと真の国際人には決してなれない。
1985年以来、先ず、日本という国がマネー資本主義時代に突入した、
いわゆるバブル経済だ。
パクス・ブリタニカの時代、すなわち、資本主義時代からバブル経済は10年から20年に一回発生していたが、バブルという名の実体のない泡ではなく、モノという実体のあるものの過熱経済であった。
日本という国は進取の精神、すなわち、オリジナリティーが皆無の国だが、サル真似の精神、すなわち、改善の妙のある国だ。
1970年代から電子計算機、つまり、コンピュータ時代が幕開けし、IBMがシステム360というオールラウンドプレーヤーのコンピュータを開発して、世界一のコンピュータ会社になった。
1980年代に入って、クレイ社がスーパーコンピュータを開発して、いよいよ、バブル経済の準備段階が整った。
世界の金融機関はこぞってスーパーコンピュータを購入し、来るべくマネーゲーム時代のソフト・ウエアー開発に没頭した結果、デリバティブ(金融派生商品)を生み出した。
そして、世界に先がけて日本にバブル経済が発生した。
1985年9月22日のことだ。
ニューヨークのプラザホテルで先進国財務・大蔵首脳会談、すなわち、G5が開催され、日本から大蔵大臣・竹下登が出席し、世界の基軸通貨であるドルの全面安を容認した。
そして、世界に先がけて日本にバブル経済が発生した。
アメリカの大手証券会社が、東京の原宿の表参道に面する陳腐化した都営住宅に目をつけたのが、バブルの発生のきっかけとなった。
途轍もない額の契約金で、都営住宅の住人から賃貸権を買取り、洒落たブティックにリフォームすることで、原宿ブームをつくりあげて行く。
それまで暗い並木道に過ぎなかった原宿の表参道は一変した。
それまで一坪100万円程度だった地価があっという間に一坪一億円に跳ね上がってしまったのだ。
まさに、バブル経済の発生だ。
1970年代に世界はコンピュータ化の緒を踏み、1980年代に世界はマネー資本主義化の緒を踏み、1990年代に世界は超格差社会に踏み込んだのである。
アメリカが世界をリードする時代は、1960年代で既に終焉を迎えていた。
1970年に日本の大阪で開催された世界万国博覧会がまさにその止めだった。
その後、エコノミックアニマルと化した日本が実質的には世界をリードするようになった。
バブル経済が最初に発生したのも日本だ。
そして、その出来事の前触れとして起こったのがイラン革命だった。
イラン革命とバブル経済には深い関係があったのだ。
マネー資本主義経済というオーメンのような子供の化け物を産む苦痛の川が流れるために、イラン革命とバブル経済という両岸を必要としていたのである。
何時、何処で何が如何に何故繋がっているかを見逃しては歴史の価値はない。
イラン革命の指導者アヤトラ・ホメイニはイスラム教シーア派の最高指導者の一人で、パーレビ政権に追われてイラクに亡命していたが、革命直前にパリに移った。
ロシア革命を確実に実現するための武装蜂起をするために、レーニンはスイスのバーゼルに移ったのと同じだ。
ホメイニがイラクのバグダッドからフランスのパリに移ったのはパトロンを得るためであり、現に、彼がパリに移ってから、イラン国内で暴動が起こりはじめた。
イラン西北にあるトルコ国境に近い町タブリズではじめに暴動が起こったが、その司令塔はホメイニの出身地であるコムにあった。
コムは首都テヘランの南120kmにある町で、ホメイニはコムのイスラム教シーア派の大本山(モスク)であるホウゼ・ウルミーエのムラーだった。
シラズからイスファハン経由でテヘランまでモセニの運転による1000kmの旅も、あと残すところ僅かとなった時、一哉は想いもよらぬ事件に遭遇した。
一哉が大学生の時代の日本では学生運動が一種の流行になっていた。
各大学のキャンパスは、学生帽の代わりにヘルメットを被った学生と、楯を持った機動隊との戦場と化していた。
(大)学生という一種の特権世代に胡座をかいた姑息な連中が流行病(はやりやまい)のように、猫も杓子も学生運動に興じた時代で、野生で育った一哉にとっては虫酸の走るような(大)学生で溢れていた。
杉山憲一という寮の後輩などがその典型だった。
まったく同じ様相の楯を持った機動隊らしき連中が町の中を行進しているのだ。
その場所がコムだった。
一哉がコムでの異変を体感しながらテヘランに着いて3ヶ月もしない間に、タブリズ、コムで発生した暴動はイラン全土を覆っていったのである。
イラン暦正月にあたる、いわゆる「ノールーズ」のおよそ1ヶ月間は完全な非活動期間であるにも拘わらず、1979年という年だけは違っていた。
そして10年後の1989年11月9日のベルリンの壁崩壊によって東西冷戦は終結した。
世界が大きく変わった10年のはじまりだった。