(その十三)

「いろは坂」も色あせるような断崖絶壁の中のドライブで、ヨセフに自分の命を預けたことによって、一哉は宿命の正体を知ることができた。
宿命の正体を知るのは寿命が尽きかける時期と大抵決まっているのに、若くして宿命の正体に気づくことは、ある意味で若き寿命が尽きかけていることを意味する。
人間の寿命だけに個人差があるのは、宿命と運命を有している点に起因するらしい。
一般論的には、
運命的寿命には個人差がない。
宿命的寿命には個人差がある。
つまり、
ある意味では運命的寿命には個人差がない。
ある意味では宿命的寿命には個人差がある。
だから、
他の意味では運命的寿命には個人差がある。
他の意味では宿命的寿命には個人差がない。
ある意味でと言ったのは、他の意味もあるからだ。
人間社会が複雑怪奇なのは、二元論社会ゆえである。
逆に言えば、自然社会が単純明快なのは、一元論社会ゆえである。
自然社会では、ある意味しかなく、運命的寿命しかない1X1=1種類の一元社会であるのに対して、人間社会では、ある意味と他の意味の二元であると同時に、運命的寿命と宿命的寿命の二元もあるから、2X2=4種類の二元社会になるという複雑怪奇さがある。
7才まで野生のままで育てられた一哉の場合には、一元論的結果を生み、他の意味の方が優先したことになる。
現に、彼は無事ホデイダに辿り着けたからである。
ある意味の方が優先していたら、彼も断崖絶壁の木の枝にぶら下がっていたはずだ。
『危険から脱する能力は潜在能力第一の要素であり、自然社会の生きものにとって、危険予知アンテナが故障したら、即死ぬことを意味する』
『自然現象を自然災害などと稚拙な愚痴を吐く人間社会を、自然社会は嘲笑してるだろう』
一哉はつくづくそう思った。
現に、サヌアからホデイダへのイェーメン版「いろは坂」には、無数の車が木の枝に満開した桜の花のように咲き誇っていた。
この光景を目の当りにすると、人間の命の軽さを痛感する。
戦争に赴く者が、命の重さを感じたら、戦地への足取りも重くなり、殺し合いなどできるわけがなく、戦士にはとうていなりきれない。
勇気ある行為は、命の軽さを理解した者だけができることであり、命の重さを感じたら、臆病になって勇気ある戦士など絶対になれない。
戦争を知らない人間だけが、命の重さを主張するのだ。
自然社会での命はしょせん副次的要素であり、主要素は種の保存にある、すなわち、生と死の繰り返しにあって、命とは種の保存の一面の一要素に過ぎないのである。
一面の一要素に過ぎない命を重視し過ぎたため、人間は死に対する極度の怖れを持つようになった。
死の恐怖からの解放という真の意味での命の重さを感じるのが、万物の霊長としての人間の宿命なのかも知れないと一哉は思った。
命の重さを主張する連中は、真の命の重さを知らない。
命の軽さを知った者だけが、真の命の重さを知る。
高い山を登った経験のある者が、谷の深さを知る。
低い山しか経験していない者は、谷の存在すら気がつかない。
大きな幸福を求めながら、不幸はできるだけ少なくしたい、可能なら、不幸を一切味あわなくて済む人生を送りたいのが人情だが、人情など宇宙からすれば砂塵の一粒にもならないし、自然社会からしても小判を与えられた猫のような代物だ。
多くの幸福を求めるなら多くの不幸の危険も覚悟するのが、宇宙的、自然的生き方であり、できるだけ不幸の少ない生き方を求めるなら、多くの幸福など端から求めないことだ。
高い山には深い谷がつきものだ。
首都サヌアは海抜2500メートルあり、ホデイダは海抜0メートル、すなわち、港町である。
アラビア半島にこんな場所があるなど、世界の殆どが知らない。
アラビア半島とは砂漠の地だとしか、世界は思っていない。
イェーメンという国がアラビア半島の中で異色の国であり続けられたのは、高い山と深い谷を有するがゆえであり、紅海を挟んでアフリカ大陸とアラビア半島が対峙している地であるゆえである。
目の前には紅海が拡がり、向かい側にはアフリカ大陸が見える。
向かい側に淡路島が見えるのとは桁違いのスケールだ。
向かい側にはアフリカ大陸が見えるのである。
モーゼが神に祈って割った海とはとうてい信じられないほどの桁違いのスケールだ。
『やはり、神は紅海を割ったのではなく、ファイユームの湖を割ったに違いない!』
ファイユームの湖とは、ナイル川の水を農業用水にするために築いた運河が、砂漠の底に地下水として溜まったもので、潮の満ち引きと同じように、砂漠の中に現われては消えてゆく不思議な湖のことである。
アラビア半島は、紅海とペルシャ湾に挟まれた長靴型のまさに半島だ。
ペルシャ湾には巨大な油田が埋蔵されているのに、紅海には油田はまったくない。
ホデイダの海岸からアフリカ大陸を一望した一哉にはまだ気づくことができなかったが、その後、イランへ渡る時に、その理由を発見することになる。
アフリカ大陸から紅海を渡ってアラビア半島に行ったように、アラビア半島からペルシャ湾を渡ってイランに行くことによって経験できたのである。
アラビア半島はユーラシア大陸にとっては、地理学的にも歴史学的にも陸の孤島であるのに対して、イラン、アフガニスタン、そして、インドはユーラシア大陸そのものである。
インドの地をインド半島と呼ばずにインド亜大陸と呼ぶ所以だ。
人類発祥の地がアフリカ大陸なら、人間誕生の地がペルシャ湾の腋に当るシャトルアラブ川のシュメール地方にあり、シュメールからイラン、アフガニスタン、そして、インドへと辿った白人種のルーツをインドアーリア系と呼ぶ所以だ。
白人種のルーツはヨーロッパにあるのではなく、イラン、アフガニスタン、インドにあったのだ。
近代になってから、世界は欧米白人社会に牛耳られるようになり、白人種が有色人種より優性である論理が展開されるようになったが、白人種のルーツがインドにあり、インドで差別の原点である「カースト」が3000年以上も前に確立されていたことにも連動しているのである。
白人社会の言葉の語源がインド・サンスクリット語にある所以だ。
英語もフランス語もドイツ語もイタリア語もスペイン語もポルトガル語も遡ればラテン語であり、最終的にはインド・サンスクリット語に辿り着く。
言語と人種は連動しているのだ。
言語はいま5000種類に及び、従って、人種の数も5000種類に及ぶわけだが、そのルーツは3種類に収斂する。
白人系、黄色モンゴロイド系、アフリカンブラック系の3種で、元を糾せば、シュメールに収斂する。
旧約聖書に描かれている「バベルの塔」の話だ。
神は1種類の言語で十分だと思い、白人系、黄色モンゴロイド系、アフリカンブラック系共々、シュメール語を遣わせていたが、その結果、彼らの間での軋轢が絶えないことに気づいて、別々の言葉を遣わせるために、世界に散らばせていったのである。
海抜0メートルのホデイダは、地に足がついた気持ちで落ち着く。
「これから先、どうするんだ?」
ヨセフの生家でゆったりした一哉に、ヨセフは何気なく訊いた。
九死に一生を得た体験をはじめてした一哉は、さすがに、もう一度、サヌアへの同じ旅は遠慮した。
「それじゃ海岸沿いに北上して、サウジアラビアのアブハに行くか、南下してアデンに行くか、どちらかしかないね・・・」
アブハはサウジアラビアには珍しい海抜が少しある快適な町である一方、アデンは当時南イェーメンの首都で、南イェーメンはばりばりの共産主義国家だった。
ここでも一哉の野生が擡げた。
「アデンに向かってみたいんですが・・・」
北イェーメンは世界でも有数の最貧困国家である。
一方、南イェーメンは北ほどではない。
その理由は、南の首都アデンにある。
北の首都サヌアは海抜2500メートルの地にあるのに対し、南の首都アデンは海抜0メートルの港町でもある商業都市だからだ。
奈良や京都といった古都は山に囲まれた盆地にあるのに対して、東京や大阪といった町は本来港町である。
文明が進むと、政治よりも経済が優先するようになり、政治戦争から経済戦争の形態に変化してゆくから、都の在り方も、敵からの防御に主題を置いたものから、敵への攻撃に主題を置いたものへと移ってゆく。
山に囲まれた盆地にある都から、海に面している港のある都へと変遷してゆくわけだ。
ところが、冷戦の終焉と共に北イェーメンと南イェーメンが統一された。
西ドイツと東ドイツが統一されたのと同じだが、違うのは、統一ドイツの首都が東ドイツの首都だったベルリンになったのに対して、統一イェーメンの首都は北イェーメンの首都だったサヌアがなった点にある。
その結果、統一イェーメンになってから、独裁政権が誕生し、後年、国は乱れに乱れてゆくことになる。
まさに、北朝鮮と大韓民国に分裂した結果、北朝鮮に独裁政権が誕生した逆現象が起こることになる。
まさに、東ドイツと西ドイツが統一した結果、統一ドイツの国力が低下していった正現象が起こることになる。
「アデンに向かってみたいんですが・・・」
一哉の野生がまさに発揮された結果の発言であり、本人の自覚がそれほどでないままに事は進んでいった。
それから10数年後に南北イェーメンが統一されるわけだから、南イェーメンの首都としてのアデンの町の見収めは稀少価値を生む。
現に、アデンの町は南北統一が為されてからの方が繁栄するようになり、首都サヌアはますます混沌の色を深めてゆくことになる。
歴史が大きく変わる時期は極めて稀だけに、稀少価値ある出来事に遭遇することができた者に、歴史を変える原動力を与え、この原動力が人類の進化に貢献してきた。
そういう意味では、一哉の野生がその可能性を切り開いたと言っても過言ではないし、7才までの間に人類も本来具えている野性を維持するよう育ててくれた両親に感謝しなければならないだろう。
自然社会ではその役目は母親がする。まさに、自然社会がメス社会の所以だ。
ところが人間社会ではその役目は父親がしてきた。まさに、人間社会がオス社会の所以だ。
卵が先かニワトリが先かの堂々巡りの理論になるが、やはり、卵が先なのが道理だろう。すなわち、メス社会が道理なのだ。
ホデイダからアデンへの道程は、お互い海抜0メートルだから地理的にはまったく問題なかったが、政治的には複雑な問題を抱えていた。国境という厄介な代物だ。
地球上に国境などない。人間社会が勝手につくった概念だ。
人類がエデンの園から追放された最初の過ちである善悪の判断が、ボタンの掛け間違いの最大の罪だ。
人類がエデンの園から追放された話などは象徴的だけであって、事実無根の話に過ぎず、実体は、人類の祖先である原人が四本足歩行から二本足歩行に移った結果、大脳に掛かる地球の重力が軽減され、脳の発達に繋がり、延いては、考える能力、すなわち、知力を得たから、自然社会を自ら出ていかざるを得なくなったのだ。
まさに、知性の功罪両面の罪的側面をアダムとイブの話は象徴しているだけであり、聖書の世界が罪的概念の世界である所以なのである。
アデンは、アメリカのニューヨーク、カナダのトロント、オーストラリアのシドニー、ブラジルのサンパウロ、日本の大阪みたいな町である。
サヌアは、アメリカのワシントン、カナダのオタワ、オーストラリアのキャンベラ、ブラジルのブラジリア、日本の東京みたいな町である。
大阪生まれの一哉にとっては、アデンという町に魅かれる所以だった。
現に、アデンの町に入った一哉が最初に気づいたのが、街角にある一軒一軒の店の前にある、それぞれ独自の立て看板に書かれていた文言だった。
「この前での駐車禁止」という看板だ。
大阪以外の日本の街でも先ず見られない光景が、アラビア半島の最下端にある街で見たのである。
豊臣秀吉以来の街づくりのコンセプトが浪花の町づくりには息づいており、京の都と一味違うところ見せつけたかったのであろう。
東の京として生まれた東京には、すべてがお上、すなわち、国が面倒を見てくれるという概念があるのと正反対なのである。
自前で町づくりをするのが大阪のポリシーなのだ。
お上が町づくりをするのが京都や東京のポリシーなのだ。
アデンも大阪と同じように自前でつくられた町なのだ。
サヌアは京都や東京と同じようにお上によってつくられた町なのだ。
サヌアが統一イェーメンの首都になることで、混迷する国に陥ってゆくことになり、延いては、世界が混迷する引き金の一つにもなってゆくのである。