(その十一)

エチオピアの革命劇と、イランの革命劇は実に対称的だ。
そして、一哉はこの二つの革命劇を目の当りにしたのである。
1974年9月12日。
ハイレ・セラシエ1世の半封建的・権威主義的統治体制を打倒し、その後、政治・経済・社会の社会主義的改革へと発展していった軍部左派主導をエチオピア革命という。
アフリカ最古の独立国エチオピアでは、テオドロス2世による19世紀後半の領土統一運動を経て、それまで北部にしか存在しなかった特有の半封建的な土地制度が、南部にもしだいに拡大し定着していった。
皇室を頂点とし、貴族・上級僧侶などから構成されるエチオピアの特権階級は、この半封建的土地制度に依存していた。
政治制度もまた旧弊なままで、ハイレ・セラシエ1世は1931年に初の憲法を制定し、同国を立憲君主制に移行させたが、その実、皇帝は立法、司法、行政上の占有権を取って、二院制の議会はあっても政党は存在を認められず、民意を政治に反映するすべは制度上ないのも同然であった。
第二次世界大戦がきっかけで、やがてアフリカに独立の機運、変革の機運が訪れても、エチオピアの前近代的統治体制は変わる兆しをみせなかった。
1960年12月に起った親衛隊のクーデターは、結局は失敗に終わったが、皇帝の統治体制がもはや長くは続かないことを予感させるに十分なできごとであった。
独裁者にとっての切り札は親衛隊、つまり、私設軍隊の存在であって、私設軍隊ゆえ、膨大な私有財産が独裁者には要る。
革命のリーダーの時代には私有財産など歯牙にもかけなかったのに、政治的リーダーになった途端、私有財産の蓄積に余念のない生き方に変わるのは、大抵の革命家の成れの果てだ。
“革命家は政治家に絶対なってはいけない”
チェ・ゲバラとフィデル・カストロの決定的な違いが、この真理を示唆している。
チェ・ゲバラは、たとえ反逆者と烙印を押され射殺される運命であっても、個人的には充実した人生を全うした。
畢竟、人間の一生、すなわち、人生の真の勝利者とは、個人的充足感の問題に帰結するのであって、社会的な名誉・権力が付与する相対的満足感の問題に起因するものではないのだ。
この真理を理解しない限り、フィデル・カストロの人生は個人的にも失意と化すことは100%間違いないし、リビアのカダフィにも同じことが言えるし、その証明が、エチオピア王国の破滅劇に見られる。
1974年初頭、数年前からの干魃による食糧難と1973年秋の石油ショックによって惹き起こされた悪性インフレの中で、待遇改善を要求する軍隊の反乱が起こり、さらに首都アジスアベバにおける教員、学生、労働者などの反体制デモやストライキが続発した。
これらの暴動を力で抑えられないとみた皇帝は、兵士の待遇改善のほか、民主化のための新憲法を6か月以内に制定する措置を公表するなどして、矛先をかわそうとしたが、反体制運動は3月には農村部に波及し、地主や役人が民衆によって追放される事件も頻発した。
一方、4月には軍部内に軍事調整委員会(デルグ)とよばれる革命委員会がつくられ、反体制運動を革命へとしだいに発展させていった。
デルグは特権階級に対する奪権闘争や粛清を進め、9月12日には遂に皇帝を廃位して、軍部政権を樹立、12月には社会主義宣言を発して、社会主義共和国への変革の方針を発表した。
しかし、エリトリア争い、オガデン争い、反政府勢力の武力闘争などの影響もあって、社会主義建設は簡単に進まず、計画された民政復帰も、1984年9月、単一政党エチオピア労働党(WPE)の結成で、軍政10年にしてようやく実現した。
その後も、1977年2月にテフェリ・ベンティ議長を粛清して後釜のデルグ議長に就任したメンギスツ・ハイレ・マリアム中佐(のち初代大統領)の下で革命の推進が図られたが、エリトリア人民解放戦線(EPLF)、ティグレ人民解放戦線(TPLF)などの軍事攻勢が行われる中で、社会主義建設の成果をあげられないまま、冷戦終結後の1990年にマルクス主義路線を放棄し、革命は事実上挫折した。
その後1991年5月にTPLFを主力とするエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)に首都を包囲され、メンギスツはジンバブエに亡命した。
同年、EPRDF書記長メレス・ゼナウィが大統領に就任。エチオピアは民主化と経済再建の道を歩みはじめたが、その後も政局は心もとない状態である。
一方、親米路線を露骨にしながら、パーレビ王朝はその頃、イランの近代化を推進していたが、イスラム教シーア派が中心のイラン国民には、首都テヘランから南へおよそ100kmの所にある宗教の聖地の一つコム出身のアヤトラ・ホメイニ師を待望する声が日に日に増していた。
その理由は、パーレビ国王の“飴と鞭”の統治手法にあった。
人間(ひと)は誰でも甘いものには弱いが、痛いものは嫌う。
パーレビの採った“飴と鞭”策は失敗だった。
本能欲しかない自然社会では効力を発揮できる“飴と鞭”策も、無数の欲にまみれる人間(ひと)には土台無理だったのである。
飴をもらった時だけは、飴をくれた相手に迎合するが、その相手が鞭を撃ちはじめると反転して非難轟々で敵意をむきだしにする。
犬は三日の恩を一生忘れない。
猫は三日の恩を一日で忘れる。
鶏は三日の恩を一瞬で忘れる。
一生の恩を一瞬で忘れる人間(ひと)が、犬や猫や鶏の上に君臨する万物の霊長などと嘯く人間(ひと)社会とは一体何者なのだろうか?
パーレビの“飴と鞭”策は結局“鞭”策だけになってしまった。
その“鞭”策こそ秘密警察(SAVAK)の暗躍だった。
イラン全人口6700万人の中、5人に1人がSAVAKのオルグだと云われたぐらい、パーレビの“鞭”策は徹底していた。
外国人によるパーレビ批判は容認されていたが、イラン人(自国民)がひとたびパーレビ批判するものなら、1時間以内に彼は行方不明になるのが常識という狂った国だった。
1979年4月1日に革命が成立した後、革命政府が行方不明者の捜索をしたら、首都テヘラン郊外にある丘陵地の無数の洞穴に数十万人の遺骨が見つかった。
ヒットラーによるアウシュビッツ大虐殺となんら変わらないことが、世界各国でいまだに為されているのである。
支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会を人間(ひと)が容認する限り、悲劇は永遠に繰り返される。
一哉がナイル川を辿って、エジプト、スーダン、エチオピアとやって来た旅は、自然社会の恩恵を知る目的だったが、却って、文明社会の矛盾を知る結果になってしまったのである。
まさに、アフリカ大陸こそ、人類発祥の地であるだけ、人類の矛盾を目いっぱい抱えた、功罪両面を具えた原点の地であった。
一哉は、エチオピアから本来ならケニア、タンザニアと自然社会探索の旅を続けるつもりだったが、エチオピアからイランへの旅に切りかえることにした。
そのきっかけを与えてくれたのは、ハミドの父ヨセフだった。
「自分はエチオピア生まれではなく、イェーメンのホデイダで生まれたから、実質は、イェーメン人で、親類はみんなイェーメンに住んでいる」
「今回の革命で、イェーメンに帰ろうと思っている」
「一緒にイェーメンに行かないか?」
一哉は迷いながらもヨセフに自分の真意を伝えた。
「イランに行きたいと思っているのですが・・・」
間髪を入れずにヨセフは応えた。
「それなら余計、イェーメン経由でイランに行った方がいいと思うよ」
当時、イェーメンはサヌアを首都とする北イェーメンと、アデンを首都とする南イェーメンに分割され、南イェーメンは中華人民民主主義共和国を盟主とする共産主義圏の一員であり、北イェーメンはソビエト連邦を盟主とする社会主義圏の一員であるという複雑な国家体系の中にあった。
ソビエト連邦を盟主とする東側諸国とアメリカ合衆国を盟主とする西側諸国が対立する冷戦構造は、イェーメンですでに錠びていたのである。
毛沢東によって共産主義革命が達成され、中華人民共和国が建設された1949年から10年後の1959年には、中国はソ連と袂を分かつことになり、東側諸国が錠びはじめたのである。
当時、北イェーメンが選んだソビエト連邦を盟主とする社会主義体制は、経済問題で多くの壁にぶちあたっていた。
経済政策の柱である五ヶ年計画に大きな齟齬が生じていたのである。
一方、毛政権による中華人民共和国は、文化大革命によって大きくねじれ、成熟期には到底及ばない幼児期のままであった。
それが奏功して、冷戦終焉のあとの、まさに、“秀吉のおうむ返し”が可能になったのである。
ソ連を冷戦の敗北者側に立たせたのは、アメリカではない。アメリカは冷戦の勝利者では決してない。アメリカも冷戦の敗北者に過ぎない。
その結末劇は、地球時間の中で演出されるから、人間時間の中では時差が生じ、その時差が10年なのか、20年なのか、30年なのか、人間には推し計ることはできないが、必ず、実現する。
戦争には、勝利者などいないのであって、両者とも敗北者に必ずなる。それが、戦争の本質なのだ。
この真理を理解した人間なら、差別・不条理の挙句の戦争を、“戦争を最優先してはいけないが、戦争は時には必要なこともある”などと嘯くことはしない。
ソ連を冷戦の敗北者側にした張本人は、高度情報化社会に他ならない。
逆に言えば、情報が統制された社会、いわば、低度情報化社会こそ、支配・被支配二層構造の差別社会に他ならず、世襲・相続が罷り通る差別社会に他ならず、宗教が罷り通る社会に他ならない。
ひとたび、高度情報化社会が出現すれば、支配・被支配二層構造の差別社会も、世襲・相続が罷り通る差別社会も、宗教が罷り通る社会も雲散霧消してしまう。
エチオピア革命は、クーデターという軍隊による革命であったの対して、イラン革命は、まさしく、一般市民による革命だった。
クーデターは革命ではなく、政権闘争に過ぎないから、政権を奪還した軍隊も、所詮、独裁者になり、挙句の果ては、軍隊による無差別殺戮が展開される。
嘗て、カンボジアのポルポト軍事政権が数百万人の国民を虐殺したり、ウガンダのアミン大統領の大虐殺事件などは、すべて、クーデターの結果だ。
真の革命とは一般市民の手で為されるものだ。
2010年代に入り、世界は急激な変化に見舞われている中で特筆すべき事件は、「ジャスミン革命」だろう。
一般市民による暴動が、政権を転覆させるのが「ジャスミン革命」であり、二十一世紀の新しい革命のスタイルだ。
いよいよ、数千年の人類の歴史の流れが変わろうとしている大変革の二十一世紀(100年)の幕開けなのである。
まさに、支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会と、人類が決別する瞬間(とき)がやってきたのだ。
呼応するように、女性社会が登場しようとしているのは、従来の支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会がオス(男性)社会であった逆証明なのだろうか?
世襲・相続の概念は、オスゆえ生まれたものであることを、そろそろ人類は洞察しなければならない。
さもないと、人類は生みの親である地球から絶滅させられるだろう。
オスは自身で子供を産むことができない。言い換えれば、子孫保存本能の絶対性を享受できず、その結果、子孫保存本能の相対性しか追求できないのがオスの宿命なのである。
子孫保存本能の絶対性とは自身が産むことであり、子孫保存本能の相対性とは他者(メス)に産ませることに他ならない。
他者(メス)に産ませることに自身の子孫を保存することしかできないオスは、肉体的子孫保存本能重視から精神的子孫保存本能重視に移行せざるを得なくなるのは必然で、畢竟、精神的子孫保存本能の要素として、世襲・相続の概念を生み出したのである。
生まれてきた子供は、自分の母親は絶対的であるのに対して、自分の父親には絶対性がないことを本能的に知っている。
本能のまま、野生のまま、子供が成長したら、父親の存在感は無に帰す。
自然社会では、子供が大人になる前に、父親が家族から離される所以であり、その後、子供も家族から離され、独立してゆく。これが自然の摂理だ。
そこで、子供が独立してゆく前に、父親は自分の力を子供に与えることによって、父親の存在感を示威しなければ、父親自身が追放の憂目に遭う。
父親が自分の力を子供に与える慣習こそ、世襲・相続の原点に他ならない。
まさに、オスの子孫保存本能欲の発露された結果、世襲・相続の差別慣習が確立されたのである。
差別とは自己保身の産物であり、自己保身は自信の無さの産物であり、自信の無さは無力(無努力)の産物であって、詰まる処、力の程度の問題に起因する。
自然界(自然社会)とは、まさに、力の発露の場なのである。
宇宙そのものも、まさに、力の発露の場なのである。
だから、宇宙が137億年前に誕生した直後に、唯一の力が分化したのであり、まさに、運動宇宙とは力の分化現象の産物であり、逆に言えば、静止宇宙とは唯一の力に集中している状態と言えるのである。
オス(男性)社会が権力を願望する所以も、力の分化と集中の往来の中で起こる現象に他ならない。
一哉がこの真理に気づいたのは、まだ20年後のことであった。