(その十)

エチオピアの革命劇を、他のアフリカ諸国の革命劇と同等に扱ったら、歴史観を誤ることになる。
フランス革命、ロシア革命は当時国のみならず、その後の世界に大きな影響を与えた。
まさに、ブルボン王朝という立憲君主制国家フランスから共和制国家フランスに変わっただけではなく、ロマノフ王朝のロシアから共産主義国家ソ連を生み、清王朝国家中国から共産主義国家中華人民共和国を生み、世界を西側と東側に二分したのである。
つまり、人類史上初の冷戦のきっかけをつくったのはフランス革命だったのである。
まさに、人類史上はじめての神経戦争だった冷戦のきっかけは、フランス革命、ロシア革命に端を発している。
二十一世紀の戦争形態はすべて神経戦争、つまり、冷戦になるだろう。
テロ行為は卑怯な闇討ちの戦争では決してなく、冷戦の一形態であったわけで、テロは戦争そのものなのである。
太平洋戦争で、特攻隊や人間魚雷を駆使する日本軍を、アメリカは非難すると同時に怖れもしたのは、まさに、現代テロリストたちのお家芸である自爆テロと何ら変りはなく、特攻隊や人間魚雷もしょせんはテロ行為、すなわち、戦争行為であったからで、2001年にニューヨークで起きた9.11テロ事件も決して卑劣な行為ではなく、所詮は戦争に他ならず、歴史上はじめて、アメリカが戦争の現場に引き摺り込まれた事件であったから、アメリカ人には衝撃であったのだ。
戦争に正当も卑怯もなく、ただの無意味な殺戮行為に過ぎず、自然社会で営まれている弱肉強食の「食う(殺す)食われる(殺される)行為」とは本質的に同じでなく、戦争とは無条件に起こしてはならないものなのだ。
大人の怒りによる喧嘩が戦争であって、子供の怒りによる喧嘩は「食う(殺す)食われる(殺される)行為」に他ならない所以がここにある。
子供の怒りは美しいが、大人の怒りが醜いのは、子供は本音で怒っているのに、大人は計算しながら建前で怒っているからだ。
戦争も所詮は大人の打算の産物だから醜い。
自然社会の食う食われる殺しは、打算抜きだから美しい。
戦争は理屈抜きで醜い行為なのである。
戦後生まれの日本人は、“戦争を知らない世代”と云われ、平和ぼけの日本人の象徴としての代名詞になっているが、アメリカ人こそ“戦争を知らない平和ぼけの国民”であり、アメリカという国が“戦争を知らない平和ぼけの国”だから、能天気にも平気で自分たちの国以外の場所で戦争をしまくるのである。
沖縄基地問題もこの観点から処理しなければならないだろう。
戦争の真実を知らないから、平気で戦争をする。
ひとたび戦争の悲惨さを知った人間は、無条件で戦争を否定する。
ベトナム戦争で人間同士の生々しい殺し合いを目の当りにしたアメリカ兵たちは、アメリカという国の欺瞞に満ちた独善に気づいた。
映画「ランボー」シリーズは、欺瞞と独善の国アメリカを徹底的に皮肉った。
第44代アメリカ大統領になった黒人初の大統領バラック・オバマの名(迷)演説の中にある、“戦争を最優先してはいけないが、戦争は時には必要なこともある”にアメリカという国が“戦争を知らない平和ぼけの国”である所以が垣間見える。
“時には必要とする戦争など”一切ないのである。
戦争そのものが罪なのである。
戦争を仕掛けた側であろうが、仕掛けられた側であろうが、戦争すること自体が罪なのである。
普遍の正義など一切ないのである。
戦争をする敵味方両者とも、“自分たちに正義がある!”と主張する普遍の正義などあろうはずがない。
能天気を続ける平和ぼけの国アメリカの辿り着く先は、原爆を投下され消滅するだけだろう。
人類史上、生身の人間の住む所に原爆をぶち込んだ国の結末は、原爆をぶち込まれて破滅することに決まっている。
まさに、この場合には決定論が奏功する。
だが厳密に言えば、未来の出来事は確率に過ぎないから、やはり、この世はすべて偶然の所産であることに変りはないが、原爆をぶち込んだ国の結末が、原爆をぶち込まれて破滅する確率は99.999999・・・%であることは間違いない。
なぜなら、生身の人間の住む所に原爆をぶち込んだ事件は、ただの一回しかないのだから、確率は1対9若しくは1対99若しくは1対999・・・、つまり、99.999999・・・%である。
非決定論が決定論に収斂(収束)する可能性は、逆現象の唯一性にある証明であり、そのとき、99.999999・・・%が100%になるのである。
一哉にとって、エチオピアの革命劇は衝撃的だった。
なぜなら、エチオピアの革命劇は、そっくりそのまま、日本の革命劇に繋がるからだ。
一哉の尊敬する両親が無意識下で敬う天皇家を否定せざるを得ないのが、人間社会の進むべき道であることを、エジプトとエチオピアという国を目の当りに見ることによって気づいたからである。
尊敬する者のために、尊敬する者に従うのは真理ではない。
尊敬する者のために、尊敬する者に反逆することが真理なのである。
親を尊敬する子は、親に逆らうものなのだ。
親を尊敬していない子だから、親に従うのである。
現代日本社会で、子が親を殺す異常現象が起こっているのは、親を尊敬していない子が、親に従わなければならないことに対する反動なのだ。
そして、逆もまた真理だから、親もまた子を殺すのである。
逆に言えば、親孝行とは、親を尊敬している子ゆえに親に反逆してきたことに対する反動が為せる業なのである。
ずっと親孝行してきた子が、“親孝行したいと思ったときは、親はもういない”と思うわけがない。
ずっと反逆してきた子ゆえ、“親孝行したいと思ったときは、親はもういない”と思うわけだ。
一哉は、自分の両親に反逆してきた気など毛頭なく、ただ、思うままに生きてきただけだ。
『反逆の真の意味はここにあったんだ!』
一般の子は、自分の両親に従ってきた気など毛頭ない、ただ、思うままに生きてこなかっただけだ。
『真の親孝行の意味はここにあったんだ!』
『親への反逆=親孝行だったんだ!』
『今までの人間社会とは一体何だったんだ?』
一哉に、革命の必要性が日本にこそあることに気づかせた瞬間だった。
公式的には、日本は建国2660年以上の伝統を誇る国だ。
紀元前660年が日本の建国された年なのだから。
そして、この2660年有余の間に125代の天皇が君臨してきた。
こんな国は世界何処を探してもない。
有り得ないからだ。
欺瞞を超えて、まさに、詐欺だ。
だが、日本の建国記念日は今でも2月11日という、紀元前660年2月11日という初代神武天皇が即位した日で定められている。
この高度情報化社会の二十一世紀においてでもある。
まさに狂気の沙汰としか言いようがない。
狂信的と巷間で言われているイスラム教世界でも、高度情報化社会の波に抗えず、支配層が被支配層の暴動に脆くも崩れ去っているのが二十一世紀なのである。
二十一世紀最大の歴史的事件の予兆が、1975年のエチオピアの革命であり、その後に続くイラン革命であったことを知る者は、まだ、人類にはいなかったが、一哉だけが無意識下で気づきはじめていたのである。
『どうやら世界のこれまでの歴史が大きく塗り変えられる時代(とき)が刻一刻迫ってきているようだ・・・そして、その引き金は・・・』
一哉は二十一世紀の夜明けの一瞥を観たのである。