(その一)

夜は暗い。
だから、人間は暗い夜に眠る。
見通しの悪い暗い夜に活動するのは危険がいっぱいだから、非活動的になることによって安全を得るために眠り、見通しのよい明るい昼に活動する。
だが、見通しの悪い暗い夜に眠らず、目を覚まして起きている夜行性動物もいるのが、自然社会の懐の深さであって、彼らはなぜ見通しのよい明るい昼に眠るのだろうか。
彼らにとっては、暗い夜が見通しがよく安全であり、明るい昼が見通しが悪く危険だからであると断ずるのは単純過ぎるかもしれないが、実は、単純さの中に真理が潜んでいるのが、宇宙を貫く真理なのである。
暗い夜が見通しが悪く危険であり、明るい昼は見通しがよく安全であるという常識は、どうやら、森羅万象普遍の真理ではなさそうだ。
太陽が沈んでいる時が見通しの悪い暗い危険な夜であり、出ている時が見通しのよい明るい安全な昼とするのは、夜行性動物には通用しないのである。
光と暗闇という二元要因の表出の問題であって、光が表面で暗闇が裏面だと思い込んできた者だけが、沈んでいる時が見通しの悪い暗い危険な夜であり、出ている時が見通しのよい明るい安全な昼であるとする太陽を神のように崇めてきただけである。
見通しのよい暗闇が安全、すなわち、表面で、見通しの悪い光が危険、すなわち、裏面だと思い込んできた夜行性動物にとっては、光の化身である太陽は神どころか悪魔に見えているのかもしれないが、彼らの見解を聞く術はない。
どうやら、すべての事象には表の面と裏の面が表裏一体となって、一見、混在しているようで、実は、補完関係を維持するという運動法則が機能しているらしく、二律背反する歪んだ二元論の考え方を持っている我々人間社会に対して、完全な平等性を発揮する二元論世界なのである。
若しも、我々人間社会も完全な平等性を発揮する二元論世界であったら、こんな自己矛盾に満ちた社会にはならなかったはずだ。
光の化身である太陽を神どころか悪魔として見ているかもしれない夜行性動物の見解を聞く術があったら、我々人間社会も、もう少しはましなものになっていただろう。
その縁は、現に、随所に見られるが、中でも、死の理解に大いに役立ったであろうことは想像に難くない。
最大の縁は、今から2000年前に登場したイエス・キリストだったが、人類にとって最大の縁に気づくどころか、消し去ってしまった我々人間の罪は、慚愧に堪えない。
この世とあの世。この二つの世界を往来できた者は一人もいない。
エマニュエル・スエーデンボルグという人物が霊界飛行の旅に行ってきたことを本にしたり、エマニュエル・カントが幽体離脱した経験があるといった枚挙に遑が無い話があるが、これらは所詮、個人の主観であって、完全な客観性に欠けている。
イエス・キリストという言葉は、古代ギリシャ語による訳語であり、『救世主(キリスト)イエス』という意味であって、当時のヘブライ人が使用していた言葉、古代ヘブライ語(古代アラム語)では、『救世主(キリスト)イエス』はメシア・エマニュエルと呼ばれていただけに、エマニュエル・スエーデンボルグやエマニュエル・カントとは、単なる偶然の一致なのだろうか、この疑問に対する解答を得るのも、最早不可能であり、所詮は、主観の世界の話になる。
せっかく客観の世界の話を2000年前に聞けた機会を、我々人間は、自ら潰してしまったのである。
数多あるイエスの真理の言葉の中でも、次の言葉は最大の縁を我々に示唆してくれている。
"Those who are the first will be the last in the kingdom of my god.
And vice versa"
“この世で一番になった者は、わたしの神の王国では最後の者になり、この世で最後になった者は、わたしの神の王国では一番になるだろう”
イエスは一体何を言いたかったのだろう。
“この世で一番成功した者は、わたしの神の王国では一番の失敗者になり、この世で一番失敗した者は、わたしの神の王国では一番の成功者になるだろう”
また、
“この世で一番幸福になった者は、わたしの神の王国では一番の不幸者になり、この世で一番不幸になった者は、わたしの神の王国では一番幸福になるだろう”
また、
“この世で一番金持ちになった者は、わたしの神の王国では一番貧乏になり、この世で一番貧乏になった者は、わたしの神の王国では一番の金持ちになるだろう”
と言いたかったのであろう。
この世と、イエスが言う“わたしの神の王国”とは、正反対の逆さまであるというのである。
中国の老子の言葉と言われている“三つの宝”という金言がある。
一番は“愛”である。
二番は“多くを求めないこと”である。
三番は、“決して一番になってはいけないこと”である。
イエスと同じことを言っているのであろう。
その結果、独りで生まれ、独りで死んでゆく者にとっては、この世にいる者とあの世にいる者の交信は不可能なのであり、若しも可能とするなら、この世とあの世を往復するという輪廻転生説に俄然関心が湧いてくるのも仕方ない。
もう一つの可能性は、お互い独りで生まれた二人の人間が、二人一緒に死んでいく心中説だが、この説も、二人が同時に同じ場所に輪廻転生しない限り立証する術がない。
1/2の確率を持つそれぞれ2人が同時に同じ場所に輪廻転生する確率は1/4になるわけで、4回に1回の割合なら挑んでみる価値はありそうだ。少なくとも4回挑戦してみれば、まず間違いなく、1回は思い通りの結果が出るはずだから。
この25%の可能性に挑戦した男が、この物語の主人公である。
25%の確率は一見、高そうに見えるが、殆ど至難の業だ。
現に、97%以上の勝つ可能性があってもバクチを張らないのが97%の人間であって、やっと3%の人間だけが、97%以上の勝つ可能性に対してバクチを張るのが凡庸世界の実体だ。
ましてや、25%程度の可能性、逆に言えば、75%の不可能性を判っていながら、敢えて、危険に立ち向かう人間など、愚かな無謀行為だと考えるのが普通の人間の心理だろう。
まさに、この物語の主人公、竹園一哉という男は、愚の骨頂のカテゴリーに入る人間ということになる。
一哉が7才になったとき、父の勝次郎が妻の末野に漏らしたことがあった。
「一哉はここまで野生のままで育ててきたから、将来どんな人物になるか楽しみだ・・・」
竹園勝次郎は、大企業とまではいかないが、中小企業とも決していえない、いわゆる、中堅企業の創業者社長である。
日本の大企業は、高度経済成長を国是としてきた我が国の方針とも相俟って、ほとんどの社長がサラリーマン社長になっていった。
戦前と大きく変わった特徴の一つである。
いわゆる雇われ社長が経営する大企業は、中・長期の経営ビジョンを期待できない組織に否応なしに変わっていく。オーナー社長なら終身社長だから、長期展望に立って経営するのが常識だが、サラリーマン社長は所詮、定年退職する日がやってくる。
55才や60才で定年退職する一般社員に比べて、精々、10年から15年長く勤められるだけのことだ。
人生50年や60年の時代では、老害社長がそのポストにしがみついていると揶揄される。
現に、そんな老害サラリーマン社長が日本の大企業には大勢いる。そこへ、人生80年の時代がやってきたから、老害社長たちにとっては、これほど都合のいい話はない一方、一般社員たちにとっては、定年退職、即、人生の終点と考えていた時代から、第二の人生が待ち受ける時代に変わってしまった結果、残された人生を如何に生きるか途方に暮れてしまうという二極化現象が表出することになる。
人間の平均寿命が延びるということは人口が増えることに繋がり、人口が増えれば増えるほど、二極化現象が顕著になるのは、二元論世界の公理なのだから、人生50年の時代から人生80年の時代に移行すれば二極化現象、平たく言えば、貧富の差はますます激しくなることを、我々人間は理解しなければならない。
下手に医療技術を発展させて平均寿命を延ばすことによって、二律背反する歪んだ二元論の考え方を持っている我々人間社会の自己矛盾を拡大させることになりかねないのである。
二律背反する歪んだ二元論の考え方を持っている我々人間社会に対して、完全な平等性を発揮する二元論世界。
これからの話は、若し我々人間社会も完全な平等性を発揮する二元論世界であったら、こんな、自己矛盾に満ちた社会にはならなかったはずという慚愧懺悔に堪えられない想いを、全身に溢れさせ生きてゆく男の物語である。
一哉が高校三年生の時である。
クラスで仲のいい溝口絢(けん)が授業と授業の合間の休憩の時に、自慢話を一哉にしてきた。
溝口はサッカー部員なのだが、サッカー部どころか、他の運動倶楽部にも所属していない、スポーツにまったく縁のない自分に親しく話しかけてくることを普段から不思議に思っていた一哉だったが、別段、悪い男でもなさそうなので、よく話をする間柄になっていたからだ。
別段、悪い男ではないと言ったのは、姿形、特に、その面相は同じ男の一哉にとっても、『自分が女子生徒だったら、いくら性格がよくても、こんな男は生理的に受けつけないなあ!』と思うほど醜悪な面相に対する相対的感情からの感想に過ぎない。
そんな溝口に対する第一印象を持った一哉にこう自慢話をするのである。
「おい、竹園、俺なあ彼女がいるんや!」
この発言だけでも、一哉にとっては、脳天に一発食らったような気分だったのに、溝口は更に調子に乗って続けるのである。
「俺の彼女は、ほらあの川島や!」
全校一の人気者、川島悦子を指して、まさに得意満面の表情だ。
「彼女とはもうキスをしたんや!」
一哉は一瞬吐き気を催したと同時に、女という生きものに対する不信感を一気に募らせてしまったのである。
『こんな面の男とキスをする女とは、一体どういう生きものなんだ?』
7才まで野生のまま育てられた一哉の感性は研ぎ澄まされたものになっていて、物事の本質を見抜く力量は大人を遥かに上回っていただけに、溝口の自慢話は逆に衝撃的だった。
人間社会の矛盾にはっきり気がついた出来事だった。
『何かおかしい?』
彼の決まり文句の独り言は、7才の時に既に始まっていた。
「一哉、仏さまに御飯を供えてちょうだい!」
母の末野が毎朝できたての御飯を先ず仏壇に供える習慣を持っていて、理由はわからないが、一哉にその習慣の一端を託していた。
母の意図に気づいたのが、彼が7才になった時のことであっただけで、1才になって歩きはじめた一哉に、末野はすでにこの習慣を叩きこもうとしていた節がある。
神や仏の存在を、生まれたての無垢な子供に信じさせようと善意で思ったのであろうか。
普通の子供なら、こんな習慣を1才の頃から始めて、7才まで続けていたら、何の理由もわからずに神や仏の存在を信じ込んでいただろうが、父の勝次郎が野生の子供に育てようと明確に意識していたことが、一哉を少し違った子供にしていった。
「お母さん、誰もいないのに、どうして毎朝御飯をあげるの?」
一哉にとっては、いたってシンプルな疑問なのである。
毎朝御飯を彼が供える仏壇が何のためにあるのかまるでわかっていないから当然だ。
「仏さまになった一哉のおじいちゃんやおばあちゃんのためなのよ・・・」
ますますわけがわからなくなる一哉だ。
まず、おじいちゃんやおばあちゃんと言われても、会ったこともない。
一哉が生まれた時には、彼らは既にこの世にいなかった。
更に、“仏さま”って一体何者なのかわからない。
子供は疑問に思ったら誰にでもすぐ問いかける。
「あんな箱の中におじいちゃんやおばあちゃんや仏さまやどうして三人も入れるの?」
末野は答えるのに窮してしまった。
夫の勝次郎の考え方を尊敬してきた末野は、その瞬間(とき)思った。
『しまった!』
『何気によかれと思ってしたことが、この子の将来に大きな陰を投げかけてしまったかもしれない!』
末野は咄嗟に一哉に問い返した。
「一哉は、毎朝御飯を仏壇に供えにいくのがいや?」
7才の一哉が途轍もない知性の持ち主に育っていたことを証明するような返事が、その直後に繰り出されたのである。
「別にいやなことはないけど、供えた御飯がずっと失くならないのだから、おじいちゃんやおばあちゃんや仏さまがこの箱の中にいるなんて、ぜったいおかしいでしょう?」
一哉は更に続けた。
「供えた昨日の御飯はどうしてるの?捨ててるのでしょう?御飯を食べれない人たちがたくさんいるのに、それはもったいないでしょう?」
一哉のシンプルな問いかけに打ちのめされて、末野は愕然としていた。
「だって、お墓参りに行った時でも、供えていた前の花をみんな捨ててるでしょう?それもおかしいでしょう?」
子供の疑問はシンプルだが鋭い。
「そうよね・・・それはおかしいわね・・・お母さんが間違っていたわ・・・明日から御飯を供えるのはやめましょうね・・・」
その日の夜、末野は夫の勝次郎に事の仔細を話した。
「そうか!一哉はそんなことを言ったのか!」
勝次郎の表情は曇るどころか、晴れ晴れとしていた。
そして、その日のうちに、竹園家の仏壇は取り払われてしまったのである。