第五十九章  変身

アバスはハッサン家の長女として生れたが、イスラム社会の慣習に納得できない彼女は、カイロ大学を卒業すると、すぐにシリアの首都ダマスカスにベリーダンスの勉強に行くと言い出して、父親のオサマの怒りを買い、勘当されてしまった。
末子だったモハマッドはまだ十才の少年だったが、美しくて利発な姉のことを憧れていた。
ダマスカスは非常に古い都で、シルクロードの隊商路の重要拠点のひとつだった。
シルクロードを行き交う商人たちにとって、ベリーダンサーは絹を買ってくれる貴重な客であるのと同時に、憩いを与えてくれる心のオアシスでもあった。
ダマスカスは最高のオアシスであった街だ。
またカイロ大学のアラビア語学科は、アラビア語の正当性を代表するひとつであったが、その対極にあったのがダマスカス大学のアラビア語学科だった。
カイロ大学アラビア語学科を主席で卒業した彼女は、どうしてもダマスカス大学のアラビア語を学びたかったことも一つの理由だった。
後にモハマッドがカイロ大学のアラビア語学科に入学したのも、姉のアバスの薦めがあったからである。
7年間、ダマスカスでベリーダンスとシリア系アラビア語を勉強した彼女は、既に超一流のベリーダンサーになっていた。
フンドック・アトラスは、ナセル時代にカイロの商売を牛耳っていたシリア人、レバノン人たちの手でつくられたホテルだったこともあって、世界的ホテルチェーンのヒルトンやシェラトンの誘いを断って、彼女は3年前から専属のベリーダンサーとして働いていたのだ。
「姉さん!」
既に息を引き取った姉のアバスをいつまでも抱きかかえて泣き崩れるモハマッドだった。
救急車のサイレンが聞こえてきた。
モハマッドは、彼女を抱きあげ、非常階段に出た。
フンドック・アトラスと隣接してフンドック・カイロの建物が寄り添うように建っている。
モハマッドは彼女を抱きかかえたまま、隣のビルの屋上に飛び移った。
騒ぎが起こってからまだ十数分の出来事だったので、隣のホテルの人間はまだ騒ぎに巻き込まれていない様子だった。
屋上から、屋内の非常階段に入ったモハマッドはペントハウスの階に出て、ひとつひとつドアーを押してみた。
壁際の部屋のドアーが開いたので、様子を窺いながら中に入って行ったら誰もいない。
血痕とほこりで泥まみれになった姉の身体をバスタブの中にそっと置いて、「フッ」とため息をついたモハマッドはやっと姉の顔をじっくりと見ることができた。
途端に、一瞬の間忘れかけていた哀しみが、再び怒涛のごとくよみがえってきたのだ。
「わあああ!」
そのとき、モハマッドは変身した。