第五十五章  中東冷戦のはじまり

「ウィーン発カイロ行MISR AIR(エジプト航空)110便は、ただいまから搭乗を開始致します。乗客のみなさまはD23ゲートからご搭乗ください」
ハンナは姉のライラと別れを惜しんでいた。
「ハンナ、お父さんによろしく言っておいてね。モハマッドも気をつけて、ハンナをよろしくおねがいします」
ライラが真剣な表情でモハマッドに言うのを横で聞いていたハンナの目は涙で真っ赤だった。
モハマッドは照れながらも、「わかりました。安心してください」ときっぱり言い放った。
ウィーンからカイロまで3時間の旅だ。
ふたりを乗せたMISR AIR(エジプト航空)110便はスイス、オーストリア、イタリア三つの国境にあるアルプスを眼下に見ながら、一気にイタリア半島を南下していった。
「モハマッド、すごい景色ね。アルプスでしょう?」
ハンナは恥ずかしそうな表情で、モハマッドに言った。
他人でなくなった今でも、ハンナは腕を組むことさえ躊躇らうほど純情なのだ。
モハマッドから肩を抱いてやると、顔を真っ赤にするハンナだった。
アルプスを超えるとベネチアの干潟が見えて来た。
「もうあと30分で地中海に出るよ」
モハマッドは優しくハンナに教えてやるのだった。
イタリア半島を超えた110便は地中海の上空を縦断してアレキサンドリアからエジプト領空に入っていった。
アレキサンドリアの海岸が見える。
『ガラブはどうしているだろうか?』
アレキサンドリア随一の実業家であるモハマッド・ガラブと一緒にリビアの首都トリポリまで車の旅をしたことを思い出していた。
『カダフィー大佐はどうしているだろうか?』
ガラブと一緒にトリポリまで行ったのは、モアマール・カダフィー大佐に会うためだった。
そしてそこで、宿敵マンスール・アル・ヒラジと出会ったのである。
『そう言えば、カダフィー大佐は、サダト大統領の対イスラエル政策を真っ向から非難していたが・・・・・・』
モハマッドは何か嫌な予感がしていた。
ナイル・デルタとサハラ砂漠が隣り合わせに見える景色は、エジプトでしか見られない。
ナイル川がサハラ砂漠の中を緑色の高速道路のように三角形に伸びている。
カイロが三角形の頂点で、アレキサンドリアとポートサイドが底辺の二点だ。
その三角形が、いわゆるナイル・デルタだ。
三角形の外側は真っ白なサハラ砂漠で、ナイル・デルタの濃い緑とのコントラストが素晴らしい。
三角形の頂点であるカイロが眼下に見えてきた。
「ハンナ、カイロの町が見えるよ!」
モハマッドはハンナに優しく言った。
「二本のナイルがカイロで合流して一本になりスーダンの首都ハルツームまで伸びているのがよくわかるわね」
ハンナは初めて見る光景に感激していた。
「カイロからウィーンまでの飛行機は夕方の便だったので、何にも見えなかったし・・・」
何か意味ありげに言うハンナの気持ちを察して、モハマッドは黙ってしまった。
『スーダンは、アンアール・サダト大統領の出身地のはずだ・・・』
サダト大統領とカダフィー大佐はどちらも立派な人物だとモハマッドは思っていた。
しかし、アンチ・イスラエルの急先鋒であるカダフィー大佐と、1973年第4次中東戦争で成果を上げて以来、親イスラエル政策に変わったサダト大統領がいつか激突するのではないかと、モハマッドは心配していた。
それが近い将来、現実のものになり、モハマッドが直接関わることになるとは、その時思いもよらなかった。
MISR AIR(エジプト航空)110便はカイロ国際空港に到着した。
第四次中東戦争のあとの、アラブ対イスラエル冷戦の幕開けがいよいよ間近に迫ってきたのだ。