第五十四章  カイロへ

ハンナは既に二十歳を過ぎていたが、殆どのエジプトの上流階級の娘がそうであるように、初体験であった。
イスラム教といえども形骸化してしまったのが、現代アラブ社会である。
イスラム教のメッカであるサウディアラビアでも、飛行機に乗るまではチャドルという黒い衣服で全身をまとっている女性が、飛行機が飛び立って自国の領域を越えた途端にチャドルを脱ぎ捨て、アルコールとタバコ漬けになる女性の姿をよく見る。
しかし、アラブ上流社会にはコーランの教えに基づくのではなく、単なる倫理観として女性の純潔を重要視する風潮が根強く残っていることも確かだ。
国際都市であるカイロでは昔から、エジプト女性の売春行為が黙認されていて、貧乏な家庭の娘は上流家庭のメードになり、夜は親の実家を借りて売春行為をしているのだから、厳格なイスラム教などもう一般社会には存在しない。
ハンナが、カイロの名門家庭の娘で、しかもカイロ大学生であるということは純潔を守っているという名札をつけて歩いているようなものである。
ハンナを抱くということは、それ相当に覚悟を決めないと、モハマッドのような猛者でもできない。
「モハッマッド。気にしなくていいのよ」
ハンナは顔を赤らめて言った。
このような状況下でハンナを抱くのは、本意ではなかったが、ハンナがここまで覚悟を決めているのに、あとずさりするわけにはいかなかった。
シャワールームの影もいつの間にか消えてしまっていた。
マンスールの亡霊とも戦わなければならないと思っていたモハマッドは、シャワールームの気配が消えていくのを察知して、ハンナに集中した。
抱擁のあと感激していたのは、ハンナではなくモハマッドの方だった。
初体験の女性を抱くと、抱いた男の方が感動して、抱かれた女性は落胆するのが常だ。
ハンナは落胆するような女性ではなかっただけに、余計モハマッドは感激した。
「カイロに帰ろう!そして結婚しよう!」
国際テロリストになる筈のモハマッドの口から意外な言葉が出たのを聞いて、ハンナは仰天した。
「テロリストになるのでしょう?それが結婚なんて!」
ハンナは、モハマッドがテロリストの訓練を受けていることを、カスティーヨから聞いていたが、モハマッドから直接聞いたことはない。
「テロリスト?」
怪訝な表情になったモハマッドの顔を見てハンナは、「しまった!」と思ったが、もうあとの祭りだった。
「あなたの叔父さんのカスティーヨから、事情を聞いていたの。サダト大統領と一緒になったカイロのビデオクラブでのこと憶えている?」
モハマッドはよく憶えていた。
『ハンナの後ろに叔父のカスティーヨの陰が見え隠れするのは何故だろうか?とにかくカイロに戻ろう!』
ハンナを腕に抱きながらカイロのことを思い出していたモハマッドを、ハンナは再び求めてきた。
今の二人には、もうどうでもいいことだった。